クロード・アシル・ドビュッシー
ペレアスとメリザンド
2022年7月6日18:30 新国立劇場
指 揮/大野和士
演 出/ケイティ・ミッチェル
ペレアス/ベルナール・リヒター
メリザンド/カレン・ヴルシュ
ゴロー/ロラン・ナウリ
アルケル/妻屋秀和
ジュヌヴィエーヴ/浜田理恵
イニョルド/前川依子
医師/河野鉄平
合唱指揮/冨平恭平
合 唱/新国立劇場合唱団
管弦楽/東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場での初演。演出はイギリス人のケイティ・ミッチェルで、エクサン・プロヴァンス音楽祭2016年の初演プロジェクト。
舞台は現代。話題は、メリザンドの心の動きを表現する黙役、ドッペルゲンガーが歌手とは別に1人登場すること。冒頭に、原作にはないシーンで、ドレスアップしたメリザンドが寝室に戻り、ドレスを脱ぎベットに入り夢を見るシーンからこのドラマが始まる。ということで、このオペラは、すべて「メリザンドの夢」という設定だ。
終幕でメリザンドが小鳥も死なない傷(字幕では「小鳥」が省略されていたのでは)で、ベットに横たわり、臨終を迎えるシーンでは、ベットに横たわるのは黙役で、本物のメリザンドはベットの周囲で謎めいた動きをしながら、歌う。
最後に、横たわるメリザンドが目覚め、全ては夢だった、ということがわかる。この筋書は、プログラムに掲載されたミッチェル氏のインタビューに詳しい。
場面は冒頭の寝室のほか、食堂、控えの間(ここでメリザンドは女中に手伝わせ下着姿となり着替えをするなど、大活躍の部屋)、薄汚れた螺旋階段のあるビル(ウェストサイドストーリーに出てきそう)、同じく薄汚れたプールサイド(ペレアスとメリザンドの戯れのシーンはここで)、倉庫、ベランダがある寝室らしき2階の部屋などが登場する。
元来、日の当たる明るいシーンが極端に少ないオペラだが、この演出では食堂と控えの間(ここだけやたらと明るい)のシーンが明るいだけで、あとは終始薄暗い。舞台転換はさすが新国立劇場、無駄がなくスムーズだ。
ドッペルゲンガー役のメリザンドの動きがよくわからない。メリザンドの心の動き、夢の中の世界を表しているのだろうが、ただ亡霊のように彷徨うだけで、その動きは一体何を表しているのか。
ペレアスは頼りなさげな男、ゴローは粗野で嫉妬深く、メリザンドとイニョルドに対して暴力的な振舞いをする男として描かれていて、原作とさほど違和感はない。これらの人物描写や、時代設定はともかく、指輪を落とすシーンや、メリザンドの長い髪にペレアスが絡む戯れのシーンが、どうして薄汚れたプールサイドなのか。全体の流れを見ていてもここだけが、かなり設定に無理があるようで、どのような意味があるのか、理解できない。
女性の視点からその心理を描いた演出らしいが、場面ごとの描き方や人物の動きが、「夢の論理で動いてながら、現実の世界で起きているようにしなければならなかった(同氏のインタビューより)」ことで、わかりにくく、結果として強調されているのは、男が女に抱く赤裸々な本能の表現や、男女の絡みばかりで(ひょっとして、これがこの演出の目指した視点の一つか?)、これでは不満を持つ観客も多かったのではないか。
演奏は見事な仕上がりで、オーケストラは申し分なく、また主役級の3人の外国人歌手が素晴らしかった。やや遅めのテンポで、細かく丁寧に仕上げた演奏(18時半開演で1〜3幕上演後30分休憩を一回挟み、4・5幕上演、終演は22時少し前)で、音楽だけでも聴く価値があった公演だった。
今回聴いた席は4階中央の最上段。歌手、オーケストラの音がすべて届いてくる音響的には聴きやすい席で、響きはかなり濃厚。演出に合わせたのか、あまりドビュッシーらしくない響きに聴こえてきて、管楽器のソロなど表情、響きがロマンティックに聴こえがち。ドビュッシーより一世代前の時代の音楽のように聴こえ、意外だった。1階席で聴くと全く印象の違う演奏だったかもしれない。
演出が不可解にもかかわらず、最後まで飽きさせなかったのはミッチェルの演出術によるためか。ただ、4階席だと人の動きはともかく、舞台の上部に死角があり、全貌が見通せないことと、当然顔の表情など、細かい仕草はほとんどわからない。
従って一度観ただけではすべてを理解できない。事前の情報などを元に、あとは各個人が考えて理解をしてください、ということなのだろう。
他のオペラ団体のプログラムには、演出について詳細に説明してあることが多い。今日のような場合は、インタビュー記事だけではなく、そういう記載があると鑑賞の手引きとなるのではないか?
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