2021/07/23

 コープマンとアムステルダム・バロック・オーケストラの

モーツァルト


199861119:00開演

バッハ    チェンバロ協奏曲第一番ニ短調

ヘンデル  「水上の音楽」第一組曲 ヘ長調

モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525

       交響曲第29番 イ長調 K.201

主催 Kitara  Club



 札幌コンサートホールの大ホールは小編成の古楽器オーケストラでも豊かに美しく、しかも演奏者の音楽を聴衆に確実に伝えてくれるホールであることを実感した演奏会。

 トン・コープマンは現在ではもはや古楽界の巨匠。Kitaraに初登場したのは98年2月16日で、オルガニストとしてオルガンリサイタルを開催。同年611日に手兵のアムステルダム・バロック・オーケストラを率いて再び来札し、バッハ、ヘンデルとモーツァルトを演奏。この組み合わせで20001010日にもう一度来札、バッハのブランデンブルク協奏曲全曲演奏会を行っている。つまり彼は札幌でオルガニスト、チェンバリスト、指揮者の三つの顔と、バロックと古典の異なる世界を披露したわけだ。

 オルガン演奏はファンタジー豊かというよりはクリアに骨格を組み立てて行く現実的路線。バッハは有弁かつアクティブで猪突猛進型。共に素晴らしかったが、どちらも違うタイプの演奏があってもいい、と思った。


 一方で今日取り上げる98611日のモーツァルトは、優しく、情緒豊かで、躍動的でもあり、笑顔のモーツァルトの魅力がいっぱい込められた名演。他の誰にも表現できない、トンだけの、しかも古楽器演奏でなければ表現し得ないモーツァルト演奏の一つの理想形を示してくれた。

 小編成で、アンサンブルが揃っていてきれい。親しい音楽家が集まって、今日はモーツァルトを弾いてみようか、と言っているような、そんな楽しげな雰囲気と演奏する喜びが伝わってきた。息を呑む緊張感を与えてくれた97年のウィーン・フィルの圧倒的な名演とは正反対の、親密感あふれる名演だ。

 アイネ・クライネ・ナハトムジークは、古楽器ならではの、きれいな音程と、素朴だが艶やかによく歌い込まれた響き、緻密だがどこかゆとりのあるアンサンブルで、これほど鮮やかにしかも楽しげに、美しく仕上げられた演奏は後にも先にもこの日のがベスト。


 最後に演奏された交響曲第29番が素敵だった。モーツァルト18才の青春時代の傑作で、抒情的かつ躍動感に満ちた溌剌とした作品。第一楽章は静かに始まる冒頭のテーマが明るく伸びやかに歌われ、しかも歯切れ良く音がすっきりと抜けてきて、実に素敵。その後のリズミックな展開も鮮やかで、ここで聴衆の心をすっかり捉えてしまった。第二楽章の弾む複付点リズムの心地良さ、思わず踊りたくなる第三楽章のメヌエット、生命力に満ちた第四楽章。アムステルダム・バロック・オーケストラはこの作品を演奏するために組織されたのでは、と思わせるほど。これほど聴衆に幸福感と音楽を楽しむ喜びを与えてくれた演奏は初めてである。


 振り返ってみると、彼等は91年に日本でモーツァルトの交響曲全曲演奏会を開催し、98年はバッハのカンタータ全曲録音プロジェクトを進行中で、最も充実した時期の来札だった。古楽器オーケストラの魅力が、前半に演奏されたバッハとヘンデルよりも、モーツァルトの傑作集でより発揮されたのは、全て長調の明るい作風だったことと、コープマン自身の明るいキャラクター(恐らく)が一致したことによるのだろう。


 ちなみに、古楽器演奏について。例えばバッハの作品はバッハの時代の楽器、あるいはそのレプリカを使用して当時の様式に従って演奏することを総称して古楽器演奏、あるいはオリジナル楽器による演奏と呼ぶ。厳密に言えば、当然、モーツァルトの作品はモーツァルト時代の楽器を使用して演奏しなければならない。楽器が違えば演奏法も違ってくるので、同じ古楽でもスタイルはバッハとモーツァルトでは大きく異なる。

 現代のオーケストラが同じ表現をしようとしても楽器の構造と奏法の違い、そして音色の違いがあり、かなり難しいだろう。



2021/07/20

〈リニューアルオープン記念〉

Kitaraのバースデイ〜札響 with 安永  徹&市野  あゆみ


 2021年7月4日(日)15:00開演

札幌コンサートホール 大ホール

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番(ピアノ 市野あゆみ)

ヤナーチェク 弦楽のための組曲

モーツァルト 交響曲第41番 ジュピター


 指揮者無しで安永徹がコンサートマスター。この仕組みはキタラ主催で二回目。久しぶりのキタラ大ホール、自然で豊かなサウンド、とてもいい音だった。

 オーケストラの編成は10型。大きくもなければ小さくもなく、ちょうどいい規模。配置は第一と第二ヴァイオリンが対向配置。各団員はコロナ対策で一人一台の譜面台を使用。全体はステージのやや奥にセッティングされており、ピアノも通常の位置よりかなり奥。この配置がステージ上の響きをうまく拾い、さらにホール全体に響いていたのだろう、心地よい響きだった。札響は通常の配置より今日のようにコロナ対策での広がったセッティングの方が音が柔らかく広がっていいと思う。

 安永の好リードで札響としては特に弦楽器が会心の出来。聴衆も久しぶりのkitaraの響きと名演奏を楽しんでいたのでは。

 最初はピアノ協奏曲。通常のコンサートではコンチェルトでオーケストラが雄弁になることはあまり多くない。ところが本日の演奏、ピアノ協奏曲でこんなにアクティブで表情豊かなオーケストラを聴いたのは初めて。      

 冒頭のヴァイオリンの主題の歌い方が実に表情豊かで、柔らかさの中に、一本筋が入った明快さと積極性がある。全曲通じてこの歌い方で積極性があり、強弱の幅も自然に広がり、そうすると必然的にスケールの大きな表現となる。アーティキュレーションはクリアで、長調から短調に変化していく微妙な陰影の表現が美しく、いつになく多彩な表情が聴こえてきた。ソリストとのアンサンブルも申し分なく、これだけ綿密で一体感がある協奏曲の演奏は珍しい。この作品の魅力の一つであるピアノソロと管楽器の対話に、やや不消化なところがあったにせよ、管楽器も大健闘だった。

 ソリストの市野がいい音を出していた。モーツァルトのピアノ協奏曲といえばまず、きれいに、美しくまとめる、というのが普通だが、ただきれい、というだけではなく、この作品に込められた様々なドラマが見事に表現されており、表情がオーケストラ同様豊かで、ハーモニーも厚く、ピアニスティックな要素が完全にクリアされていた。特にピアノソロから始まる第三楽章が実に生き生きとしており、これは素敵だった。輝かしい未来を祝うような、Kitaraのバースデイに相応しい演奏だった。協奏曲でソリストはもちろん、オーケストラまで楽しめた演奏は本当に久しぶりだ。楽器を完全に手中に納めており、ピアノの状態・調整も良かった。

 

 後半のヤーナチェクは弦楽器だけのアンサンブル。ハーモニーというか、全体の調和、音色が実に見事。前半のコンチェルトにあったオケとピアノの微妙なピッチの食い違いのようなものが払拭されており、とても美しいハーモニーが生まれていた。

 若い頃の作品だが、今日のように指揮者がいなくても、個々の奏者の表現への積極性が感じられる演奏で聴くと、実に多彩で若々しい生命力に溢れた豊かな音楽だ。元来ローカルな作品だが、今日の演奏はそういう土臭さよりはインターナショナルで洗練された音楽。随所に聴こえた伸びやかな表情が印象的で、特に第五曲、六曲での緻密でかつ柔らかいよく歌い込まれた奥行きのある表情がとても良かった。


 最後はジュピター交響曲。全体的には心地よい拍子感とメリハリある表情が一致して、がっちりした構成感を作り上げ、壮大な建築物を見るような演奏。フレーズのディテールの彫塑は緻密で、ベテラン指揮者にありがちな弾き飛ばす(振り飛ばす?)いい加減さはどこにも感じられない。最近では稀な、細かいところまでしっかり掘り下げた引き締まった上質の演奏である。

 以前、2009年に同じ構成でハイドンの交響協奏曲やシューベルトの交響曲を演奏した際は、指揮者なしの欠点でもある慎重過ぎて音楽が停滞してしまう現象がところどころあったが、今回はそういう欠点は一切ない。

第一楽章はやや遅めのテンポで堂々とした音楽。様々な楽想を深く掘り下げた陰影のはっきりした演奏。第二楽章は情緒豊かな演奏だが、弦楽器と管楽器の対話のシーンの見事さなど、なかなか聴けない名演奏だ。この楽章での各パートが集中してお互いに聴き合う室内楽的緻密さは普段の札響にはない姿勢。結果的に柔らかく豊かなオーケストラの響きを生み出していた。

 第三楽章のメヌエットはヴァイオリンの柔らかいボーイングが生み出すふくよかさと絶妙な三拍子がうまくマッチングしていて心地良い自然で豊かなサウンド。トリオでは第四楽章のフーガの主題のモティーフが突然登場して驚かせるところだが、ここでは明確なアクセントで強調し、モーツァルトの意図を十分すぎるほど反映していた。トリオからメヌエットへ戻る時に一瞬の隙があったのが惜しまれる。

 第四楽章のフーガは力感あふれる見事な演奏。フーガのテーマで個々の音符にアクセントが明確に付けられ、対旋律の律動的な動きもかなりクリアで、実に明快な演奏である。第388小節で、コントラバスと第二ファゴットで演奏されるフーガのテーマをティンパニーで増強した箇所はティンパニーの音程が定まらなかったのが惜しまれる。

 アンコールにグリークの組曲ホルベアの時代から。実に鮮やかで、爽やかな演奏。

 やはりこの日のコンサートは安永徹のベルリンフィルで培ったオケマンの豊かな経験が全て。この経験をもっと若手に伝える機会を作れるといいのに、と思う。

  

 



2021/07/19

ティンクとウィーン・フィルのブルックナー


ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 19971010

シェーンベルク 管弦楽のための5つの小品

ブルックナー交響曲第7番

指揮者 ベルナルト・ハイティンク 主催HBC北海道放送


ウィーン・フィルの札幌コンサートホール Kitara初登場。ウィーン・フィルは80年以来の17年ぶり六度目の来札公演だった。

演奏会はマチネーで、プログラムは前半にシェーンベルクの「管弦楽のための5つの小品」、休憩の後にブルックナー。


 この年の7月4日に開館した札幌コンサートホールはオープニング・コンサートやPMFの夏が終わり、秋のコンサートシーズンに入った時期。聴衆も新しいホールの響きに次第に慣れてきた頃に、満を持してのウィーン・フィルの登場だ。

 この1010日は来日ツアー初日で、しかも初めて演奏する新しいホール。この二つが彼等にもたらしたであろう緊張感と、開館して間もない札幌コンサートホールの自然で豊かな響き。そして札幌の、楽器が美しく響く北国ならではの気候の素晴らしさ。これらすべてが、この上ないほどうまくマッチングして成立した、この時だけの、この時しか成立し得なかった一期一会の見事な演奏だったと思っている。


 後半のブルックナーの演奏が忘れられない。それぞれの弦楽器セクションがまるで一人で弾いているかのように見事にピッチが揃い、しかも各パートがお互いに他のパートを聴き合いながら、音程、ハーモニーを調和させ、精緻なアンサンブルで音楽を創り上げていく、まさしく巨大な弦楽四重奏が眼前に繰り広げられていく。

 そのプロセスは超一流のオーケストラならではの仕事だ。そこには一瞬の隙も遅延もなく、ミスもない。しかも音の重なりが織りなすハーモニーの美しさは初めて聴く素晴らしい響き。

 冒頭のヴァイオリンのトレモロからチェロとホルンによるテーマが登場し、ヴィオラがそれに加わっていくシーンは思わず鳥肌が立つほどの素晴らしさで、全体の響きの統一感は今まで経験したことのない見事な完成度で、これが世界最高のオーケストラの実力かと圧倒されたことを覚えている。

 その後も室内楽的緻密さで構築されていく音楽は、弦楽器はもちろんのこと、管楽器の音色と心地よい音程など、個々のパートのクオリティの高さと全体の調和の美しさ・統一感は例えようがなく深い感銘を受けた。ホ長調という必ずしも音程を揃えやすいとは言えないこの作品を技術的にほぼパーフェクトに表現していたのではないか。

 ウィーン・フィルの演奏は、その後、Kitaraではムーティの指揮(2008年)で、またサントリーホールでティーレマンの指揮(2013年)で聴いている。もちろん演奏は一級品であったことは間違いないが、この時のブルックナーほどの感動を与えてはくれなかった。

 

 そして指揮者のハイティンク。2019年引退公演を行い、第一線を退いたのは残念だが、彼なくしてはこの演奏は成立しなかった。作為的なことは一切行わず、オーケストラにごく自然に(そういえばブルックナーもシェーンベルクもオーストリア出身だ)ブルックナーを語らせることができたのもハイティンクならではの実力だ。恐らく彼の最高の名演の一つだったのではないか。引退公演で最後に指揮したのも偶然にもウィーンフィルと、このブルックナー交響曲第七番だった。

 その後、札幌コンサートホールは周囲の環境と響きの良さで広く知られるようになったが、このホールが札幌の新しい音楽文化の拠点になるだろうことを確信することができた思い出深いコンサートだった。

  はじめに 

    札幌コンサートホールKitara 1997年7月に開館し、現在まで数多くのコンサートが開催されてきた。その数は膨大である。だが、当然のことながら実際のコンサートでの演奏の記憶は、コンサートを聴きにきた人達の心の中だけに残っており、おそらくそれは歳を重ねるほど曖昧となり、風化され、時として美化されることもあるだろう。それが音楽芸術の魅力でもあるので、あえて、その記憶を蘇らせることは必要ないのかも知れない。

しかし、それを承知の上で、コンサートの記録をより詳細で豊かなものとするために、演奏の記憶を描きだす誘惑を感じたのが、このブログを始めたきっかけである。


 もちろん、全てのコンサートの演奏を記憶しているわけでも無いし、また、演奏から受ける印象は千差万別で、その記憶を描いても、それが必ずしも普遍的で客観的な事実になるとは限らない。だが、少なくとも全く起こりもしなかった虚構や仮象を描くのではないので、記録をより豊かにする助けになるのでは、と思う。


 そういうわけで、その時々で、記憶に残っているコンサートの演奏の印象を書いていくことにしたい。開館から今までKitara のステージを彩った素敵な演奏の記憶が中心だが、年代は順不同である。かつ必要に応じて東京など他都府県でのコンサートやオペラについても、また、最近のコンサートの鑑賞記も記載していきたい。