2022/12/27

 Kitaraのクリスマス2022

2022122415:00  札幌コンサートホールKitara大ホール


指揮/三ツ橋 敬子
ソプラノ/伊藤 晴◇
テノール/城 宏憲◆
管弦楽/札幌交響楽団


ポンキエッリ:歌劇「ジョコンダ」より 時の踊り

プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」より

       見たこともない素晴らしい美人◆

       おお、私は一番きれいでしょう

             あなた、あなた、愛らしい方◇◆

       間奏曲

       捨てられて、ひとり寂しく◇

      歌劇「修道女アンジェリカ」より間奏曲

モリコーネ:映画『ミッション』より「カブリエルのオーボエ」

      映画『ニュー・シネマ・パラダイス』より「愛のテーマ」
マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より 間奏曲
プッチーニ:交響的奇想曲

      歌劇「ラ・ボエーム」より

       冷たい手を◆

       私の名はミミ◇

       愛らしいおとめよ◇◆
アンダーソン:クリスマス・フェスティバル 


 

 毎年恒例のKitaraのクリスマス。コロナ禍は未だ落ち着きを見せないが、昨年に引き続き、無事開催。三ツ橋は堅実で、安定した音楽を聴かせ、オーケストラから無理のない、いい響きを引き出す指揮者だ。

 プログラム構成はよく考えられた、バラエティーに富んだもの。


 マスカーニから始まったプログラム後半が楽しめた。

 マスカーニは札響からとてもきれいな音色を引き出し、ディテールを丁寧に仕上げたこの指揮者ならではの好演。

 続く、珍しいプッチーニの交響的奇想曲は、15分ほどの、音楽院卒業時の若き時代の作品。プッチーニのオペラのダイジェスト版のようで、彼のどれかのオペラで聴いたようなフレーズ(ボエームの冒頭はこの作品の中間部から引用されている)や、彩豊かな響きがそっくりそのまま聴こえてくる。輝かしい未来を予感させる立派な作品だ。三ツ橋が豊かな響きでドラマティックに表現し、聞き応えのあるいい演奏だった。


 ボエームからの一場面は、有名な作品だけに、やはり2人とも相当歌い込んでいるのか、前半で見られた硬さは一切無く、音楽によく馴染んだ伸びやかな声と、きめ細かい表情が素敵で、効果的で美しい照明演出も相伴い、聴衆を魅了した素晴らしい演奏だった。三ツ橋は歌をよくサポート。聴衆は今日1番の熱い拍手で出演者を讃えていた。


 続く定番のアンダーソンは、この指揮者の誠実な姿勢が感じられた、遅めのテンポで、重厚に仕上げた演奏。もう少しクリスマスらしい飛び跳ねるような感覚があれば、とも感じたが、しかし、安定感のあるいい演奏だった。

 

 前半は歌のほかに、札響団員のソロありの多彩なプログラム。

 冒頭のポンキエッリは、オーケストラから自然で美しい音色を引き出した好演。 

 プッチーニのマノン・レスコーからの一場面は、歌手も指揮者も緊張していたのか、音楽に乗り切れず、盛り上がりが今ひとつだったが、意外と演奏されない作品だけに、貴重な鑑賞機会だった。

 モリコーネでは、オーボエ首席の関と、今日のコンサートマスター、田島が秀悦なソロを披露。


 照明演出は、毎年恒例の、雰囲気ある良質のもので好感が持てるが、気がつかないところで、少しずつ内容がグレードアップや変更されたりしているようだ。これを鑑賞するのも、このコンサートの楽しみの一つでもある。


2022/12/19

 クリスマスオルガンコンサート


2022121715:00  札幌コンサートホールKitara 大ホール


オルガン/ヤニス・デュボワ

    (第23代札幌コンサートホール専属オルガニスト)

指揮/大木 秀一

合唱/市立札幌旭丘高校 合唱部、札幌山の手高校 合唱部


【オルガン・ソロ】

ブルーンス:コラール幻想曲「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」

フランク:大オルガンのための6つの小品より 

     第4 パストラール ホ長調 作品19

J.S.バッハ:さまざまな手法による18のライプツィヒ・コラール集より

      いざ来ませ、異邦人の救い主よBVW659

      いざ来ませ、異邦人の救い主よBVW660

      いざ来ませ、異邦人の救い主よBVW661

ダカン:「ノエルの新しい曲集」より

     デュオとトリオのディアローグのノエル 作品2-2

バルバートル:ノエルの形式による4つの組曲より

       第2番 第2曲 彼は小さな天使

【オルガンと合唱】

J.S.バッハ:コラール「主よ、人の望みの喜びよ」BWV147

クリスマス・メドレー ~もろびとこぞりて/ひいらぎ飾ろう

           /荒れ野の果て

フランク:Panis Angelicus

アルネルセン:I Will Light Candles This Christmas


 クリスマス・オルガンコンサートは今年で19回目。クリスマス時期の定番メニューとして定着し、毎年来場者が多い。高校生の合唱団が出演することもあって、場内は家族連れが多く、いい雰囲気だ。


 前半はオルガン・ソロ。Kitaraのオルガンを聴いたのは、デュボワのデビューリサイタル(202210月8日)以来だ。デビューの時は、さすがに緊張していたのか、演奏とオルガンの音が固くなりがちだったが、今日は、演奏もオルガンの響きも、とても良かった。

 ここ数日は寒いなりに気候が安定していたためか、ホール内の湿度、温度に大きな変動がないようで、オルガンの響きがいつになく柔らかく、上質で、品の良い響きがしており、久しぶりにKitaraオルガンの魅力的な音を堪能できた。


 冒頭のブルーンスは、落ち着いた語り口と安定したオルガンの響きが印象的。続くフランクはフルート菅の優しい響きが心地よく、全体の響きがふわっと柔らかくまとまって広がり、いかにも田園風で素朴な響きがしていてよかった。

 バッハはそれぞれの楽曲の個性がよく活かされており、レジストレーションの組み合わせもよく、聴きやすい音だった。

 ダカンとバルバートルは音楽の流れが自然で、特に言葉を話しているかのように聴衆に語りかけてくるような雰囲気があって、これはフランス語を母国語とするデュボアならではの名演。


 合唱は2校の合同で、卒業生が賛助出演。マスク無しの歌唱で、久しぶりにフィルターのない、直接の声を聞くことができた。一体何年ぶりになるのだろうか。

 ホールいっぱいに若々しい,よく訓練された美しい声が響き、また合唱のレベルがとても高く、ノンビブラートで、しかもきれいなピッチで重なる厚いハーモニが素晴らしかった。高校生とは思えない、成熟した大人の声で、立派なプロ級の合唱だ。デュボアのオルガンは終始合唱を支えて、いい伴奏だった。


 場内は、毎年恒例だが、気の利いた節度ある演出と照明が、クリスマスの落ち着いた雰囲気を伝えてくれ、楽しかった。




2022/12/18

札幌交響楽団hitaruシリーズ定期演奏会第11


20221215日19:00  札幌文化芸術劇場hitaru


指揮/川瀬賢太郎


サクソフォン/上野耕平

ピアノ/山中惇史

パーカッション/石若駿


管弦楽/札幌交響楽団


ニールセン:フェロー諸島への幻想の旅

吉松 隆:サイバーバード協奏曲(1994)

メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」

 


 吉松隆がよかった。サクソフォンの上野は、何度も来札しており、札幌の聴衆にはお馴染みだが、やはりこの人の音楽的センスは抜群で、サクソフォーンの楽器の範疇を超え、聴衆に訴えかけてくる優れた表現力がある。今回は、喜怒哀楽が豊かな、鮮やかな演奏を聴かせてくれた。

 山中、石若も、アンサンブルに対する優れた感覚を持っており、美しい音色による繊細な表現が素晴らしい。

 特に第2楽章に込められた吉松の思いが、3人による繊細で、透き通るような音色で表現され、これはとても感動的な演奏だった。

 パーカッションの石若の澄んだ美しい音がとても印象的で、時には主役として自己主張をしたり、また影でそっと支えたりと、見事な存在感だ。パーカッションが、多彩な表現能力を持った、しかもとても優美な楽器であることを示してくれた。

 オーケストラはややソロを邪魔するような、大きすぎる響きの箇所もあったにせよ、ソリストとの一体感があって、いい演奏だった。

 吉松の作品には、ほんのりとした調性感覚と、日本人ならではの情緒豊かな感性がある。「美しい旋律や和声を否定した20世紀の前衛音楽に反旗を翻し、1980年代から「世紀末叙情主義」を標榜(当日配布プログラム解説より)」している通り、今日の演奏は吉松作品のそんな魅力を存分に伝えてくれた。吉松が来場し、この演奏を鑑賞。

 3人で、アンコールにロンドンデリーの歌。ピアノの山中がしゃれた即興を聴かせ、上野がそれに答え、石若が彩りを添える、という呼吸の揃った鮮やかな演奏で、聴衆への素敵なクリスマスプレゼントとなった。

 

 メンデルスゾーンは、楽曲の性格が比較的明確な後半の第34楽章が、表情に豊かさがあり、充実した響きのまとまりある演奏で、聞き応えがあった。

 ただ、今日座った一階の20列では、弦楽器の厚い響きに覆われて木管楽器群のソロがKitaraのように抜けて響いてこない。ここは客席によってかなり響きに違いがあるにせよ、メイン会場のKitaraとは、響きのバランスが異なるので、その調整が今回はやや不調だったのかもしれない。

 第1、2楽章はもう少し丁寧な交通整理と、ピアノ、ピアニッシモの美しさが感じられる豊かな表情があるともっと良かった。全体にやや大味で、秘めたロマンティシズムがあまり感じられなかったのがちょっと残念。


 冒頭のニールセンは、プログラムに掲載されていた作曲者自身のコメント通りに音楽が進行して、なかなか面白い作品だった。管楽器の音色がきれいで、ローカル色豊かな、遠近感のある素朴な雰囲気が感じられ、いい演奏だった。

コンサートマスターは田島高宏。

2022/12/11

札響の第


121017:00  札幌コンサートホールKitara大ホール


指揮/広上 淳一


ソプラノ/秦 茂子

メゾソプラノ/清水 華澄

テノール/吉田 浩之

バス/妻屋 秀和


合唱/札響合唱団ほか

管弦楽/札幌交響楽団


ワーグナー:ジークフリート牧歌

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調「合唱付き」



 広上の第9は親しみやすく、気楽に楽しめる内容。ことさら何かを強調して表現するなど、特別な解釈をするわけでもなく、いつも聴き慣れている平均的な解釈で、定番中の定番。


 細かい箇所など結構大雑把で、第3楽章などは、細部まで大切に表現して欲しいとか、その他の楽章でも全体的なアンサンブルのバランスのコントロールなど、丁寧に仕上げてほしい、と思う所もあったが、そういうことよりも、全体の大きな流れを大切したスケール感あるまとめ方だ。

 かつ、メリハリがあり、骨格がしっかりしており形が崩れない。オーケストラは活気があり、生き生きと演奏している。重低音がしっかりと響き、重心の低い、この作品にふさわしい、いい響きがしていた。このオーケストラの自発性を引き出すのも広上の長所だ。

 しかも伝えるべき情報はすべてきちんと伝えてくれた演奏で、全体的に深刻ぶらない、世俗的な親しみやすさを感じさせてくれた、明るい第9だった。これも広上ならではの魅力だろう。


 ソリストは全員ステージ上前方で歌い、従って声も歌詞も充分伝わってきて迫力があった。バスの妻屋が声量と表現力が素晴らしく、さすがの貫禄。その他の歌手も安定感、声量もあり、作品の持つ声楽的な魅力を充分伝えてくれ、久しぶりに第9の独唱を堪能出来た。


 合唱は札響合唱団を中心に、地元声楽家、札幌放送合唱団が加わった73名の合唱団(当日配布のプログラムより)。 P席で歌い、マスク着用で、一席ずつあけての着席。マスク着用ゆえに、詳細は不明だとしても、おそらく発声、発音、音程、声量など、安定した良質のコーラスだったと思う。その真髄は、やはりマスク着用義務が解けるまで待つことにしよう。


 冒頭にワーグナーのジークフリート牧歌。ちょっと焦点の定まらないようなところもあったが、これも広上ならではの親しみやすい演奏だった。第9の前座としては立派すぎる作品だったような気がする。


 やや空席が目立ったのが惜しい。コンサートマスターは会田莉凡。



2022/12/06

 庄司 紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ

デュオ・リサイタル


202212415:00  札幌コンサートホールKitara大ホール


ヴァイオリン/庄司 紗矢香

フォルテピアノ/ジャンルカ・カシオーリ


モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第28 ホ短調 K.304

       ヴァイオリン・ソナタ 35 ト長調 K.379

C.P.E.バッハ:幻想曲 Wq.80

ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 9 イ長調 作品47

       〈クロイツェル〉


 2人とも古楽器奏者ではないが、クラシック弓を使用しガット弦を張ったヴァイオリンとフォルテピアノによる演奏。ピッチはモダンピッチ。使用フォルテピアノはアントン・ワルターモデル1805年)でポール・マクナルティが制作したもの。


 庄司はトップクラスの奏者ゆえ、クラシック弓とガット弦を張ったヴァイオリンを演奏する事に対する不都合は、当然全く感じさせない。音色は太く、たくましく、表情は豊かで迫力があり、ダイナミックで凄みのある演奏だ。


 カシオーリのフォルテピアノ演奏は音がきれいでかなり繊細。音楽は実に穏やかで上品、安定しており、かつ雑音を一切出さない、という響きに対する徹底的なこだわりがある。庄司の多彩な表情に、ほぼ完璧に一体となり、見事なアンサンブルを形成していた。


 芸術面では、明らかに庄司がリードしていたようで、メリハリのある表情、自由自在に変化するテンポ、多彩な装飾音など、自由な語り口が素晴らしく、今までの演奏像とはかなり異なるところが多い。一方で、フォルテピアノの演奏そのものは、現代のピアノでも違和感なく表現できそうな内容で、現代のピアノにはないフォルテピアノ独自の個性的な表現がもう少しあってもよかったのではと思う。


 個々の作品では、モーツァルトとC.P.E.バッハが素晴らしかった。

 モーツァルトは、まず、ホ短調ソナタでの、冒頭の不気味なユニゾンでの強弱の対比、それに続くヴァイオリンの美しいソロなど、これは凄い、と思わせるスタートで、聴衆を魅了。きれいで流麗的、という今までのモーツァルト像を残しつつ、かなり自由な発想に基づいて演奏しており、自在に伸び縮みするテンポと、はっとさせるような大胆な強弱の対比の表情がとても鮮やかだった。演奏する、というよりは語りかけてくる、という感覚の方が近い。

 もちろん基本的な全体像、枠組はしっかりと設計されており、それが崩壊することは決してない。2曲とも両者の絶妙なバランス感覚が実に見事で、しかもメリハリのある表現で、とてもわかりやすい演奏だ。特にト長調の第2楽章の変奏曲が、生命感にあふれ多彩で美しい、素晴らしい演奏だった。


 C.P.E.バッハは、原曲が鍵盤楽器のための作品で、明らかに自身の即興演奏を楽譜化した名品だ。ヴァイオリン声部が、単にオブリガートではなく、即興的で、個性ある雄弁な声部であることを伝えてくれ、原曲にはない立体感を感じさせた名演だ。人の演奏はまさしく聴衆に語りかけてくる演奏で、メランコーリックなC.P.E.バッハの作品の魅力を存分に伝えてくれた。

 C.P.E.バッハの作品は第648 回札響定期でも演奏された。短期間に何度も聴けるのは珍しいことだ(今回のリサイタルでもアンコールにヴァイオリンソナタの一楽章を演奏)。


 ベートーヴェンでは、庄司の演奏する基本的姿勢は、それまでと同様で、特に両端の楽章では、感情の爆発を大胆に表出した演奏で、これは聞き応えがあった。第2楽章は美しく、アンサンブルとしてもほぼ完璧な演奏だ。この楽章はベートーヴェンが詳細に楽譜を書き込んでいるためか、演奏者が自由に振る舞う箇所が少なかったようだが、やはりヴァイオリンの主張が明快で鮮やか。

 ただ、この作品では、フォルテピアノとのバランスが問題。明らかにフォルテピアノの絶対音量が弱すぎ、両者の間にヒエラルキーが形成されてしまい、デュオとしての面白さが充分伝わりきらなかったのが惜しまれる。

 この日の使用楽器がやや大人しかったのかもしれないが、カシオーリがかなりセーブして演奏していたので、もっとダイナミックに、ヴァイオリンに負けない大胆なアゴーギクをつけて演奏してもよかったのではないか。

 もう一点は、フォルテピアノの基本的仕様からすると、おそらく今日のピッチ440は高すぎるのでは。430前後の、もう少し低いピッチだと、楽器がもっと鳴って表情豊かになったのかもしれない。ただ、ヴァイオリンとのピッチ調整の問題が生じるので、これは難しい課題だろう。


 とは言いつつ、しかし今日の演奏は、今までのカテゴリーにはない、自由で新しい発想があり、実に魅力的だ。先日聴いた内田光子とパドモアのシューベルトのリートを想起させる、枠にはまらない自由な感性が生み出した演奏で、今後どの様な演奏を繰り広げていくのか、大変楽しみだ。また札幌の聴衆にとっても、今最も最先端を行く、新しい演奏に触れることができ、これはとても貴重な機会だったとも言えよう。

2022/11/30

 649回札幌交響楽団定期演奏会

 112713:00  札幌コンサートホールKitara大ホール


指揮/エリアス・グランディ

ヴァイオリン/ヴィクトリア・ムローヴァ

管弦楽/札幌交響楽団


ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第

ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死

ドビュッシー:「海」


 指揮者のグランディはすでに「カルメン(札幌文化芸術劇場、 2020年1月)」で札幌交響楽団とは共演済。
 今回の定期はロシア、ドイツ、フランスと多国籍で、しかもそれぞれが重量感のある作品ばかり。聴く方も演奏する方もタフさを求められる、なかなかハードなプログラムだった。


 グランディはオーケストラを豊かに響かせることが出来る指揮者だ。しかも無機的にならずによく歌えるし、音楽が若々しい。とても伸び伸びとしていて、陽性の明るい響きを引き出すので、今日はいつもより豊潤なオーケストラの響きが聴け、いい演奏会だった。

 特に後半のプログラムは、必ずしも短期間で仕上げられる作品とは思えないが、良質の演奏を聴かせてくれた。自信のある作品だったのだろう。


 ワーグナーがスケールの大きい、情感豊かな演奏。前奏曲では、細かい表情をとても丁寧に、微に入り細に入り描いていたし、また揺れ動く微妙な調性感覚が、美しい音色とハーモニーで表現されていて、心地良かった。愛と死でのロマンティックな表現も見事。よく歌い、響きにまとまりがあって、実にふくよかで、いい音がしていた。

 ただ、全体的に健康的で明るい音楽だったので、妖艶さが少しでもあると良かったのかもしれないが、日曜日の昼に聴くワーグナーとしては最高だった。


 ドビュッシーは、ワーグナーから一転して、すっきりとした響きがして鮮やか。もちろん、ワーグナーとは書法が全く違うので、異なる響きがするのは当然だとしても、この切り替えの感覚は、指揮者、オーケストラ共々実に見事だった。

 各パートが緻密で繊細に書き込まれたこの作品をグランディがよく統率。札響から抒情的で美しい音を引き出し、多彩な表情を見せる海の様子を、色彩豊かに鮮やかに描き上げていた。大音響での爆発などもあるのだが、響きはけっして荒々しくなることはなく、この指揮者の優れたセンスが光った演奏だった。

 全体を通じて、管楽器セクションの充実ぶりが素晴らしかった。弦楽器の爽やかな響きも聴きやすく、今日は他のオーケストラからは聴くことのできない札響ならではの音、響きが堪能できたのがうれしい。


 ショスタコーヴィッチのソロを弾いたムローヴァは、ベテランらしい落ち着いた、安定感のある演奏で、以前と変わらない凛とした佇まいが全体的に感じられ、素敵だった。

 楽章ごとに多彩な表情を聴かせ、深く歌い込んだ第1楽章、鮮やかな技巧で躍動的な表情の第2楽章、第4楽章の前の堂々としたカデンツァなど、この作品の魅力を余すところなく伝えてくれた。

 作品そのものは、暗い陰鬱な音楽の中に、不屈の精神力を感じさせる、いかにもショスタコーヴィッチらしい音楽だが、ムローヴァの演奏からはロシアや作曲家に対する憧憬のような感情は一切感じさせない。

 作品を極めて冷静客観的に見据えた厳しい演奏で、またそれがこの演奏家の魅力でもあろう。グランディは、オペラを得意とする指揮者らしく、良質のアンサンブルを作り上げていた。

 ソリストアンコールにバッハの無伴奏パルティータ第2番からサラバンド。古楽器風の、語りかけるような、力がさっと抜けた表情豊かな演奏で、とても良かった。


2022/11/29

ボリス・ゴドゥノフ


2022112614:00  新国立劇場


 揮/大野和士

 出/マリウシュ・トレリンスキ

 術/ボリス・クドルチカ

 裳/ヴォイチェフ・ジエジッツ

 明/マルク・ハインツ

 像/バルテック・マシス

ドラマトゥルク/マルチン・チェコ

 付/マチコ・プルサク

ヘアメイクデザイン/ヴァルデマル・ポクロムスキ

舞台監督/髙橋尚史


ボリス・ゴドゥノフ/ギド・イェンティンス

フョードル/小泉詠子

クセニア/九嶋香奈枝

乳母/金子美香

ヴァシリー・シュイスキー公/アーノルド・ベズイエン

アンドレイ・シチェルカーロフ/秋谷直之

ピーメン/ゴデルジ・ジャネリーゼ

グリゴリー・オトレピエフ(偽ドミトリー)/工藤和真

ヴァルラーム/河野鉄平

ミサイール/青地英幸

女主人/清水華澄

聖愚者の声/清水徹太郎

ニキーティチ、役人/駒田敏章

ミチューハ/大塚博章

侍従/濱松孝行

フョードル-聖愚者(黙役)/ユスティナ・ヴァシレフスカ

 

合唱指揮/冨平恭平

 唱/新国立劇場合唱団

児童合唱/TOKYO FM 少年合唱団

管弦楽/東京都交響楽団

共同制作/ポーランド国立歌劇場



 演出はマリウシュ・トレリンスキ。ムソルグスキーの原作自体そもそも色々な版、変更などがあるが、今回はそれらともかなりかけ離れたドラマ構成となっている。

 ゴドゥノフは暴君という設定で、最後に僭称皇子に誘導され暴徒と化した民衆により殺害される。逆さ吊りにされ、晒し者にされる悲惨な最後を遂げる。

 息子フョードルは介護が必要な障がい者で、聖愚者を兼ねた黙役として登場し、ゴドゥノフに殺される設定。

 貴族の娘、マリーナは残念ながら登場しない。したがって血の気の荒い男ども中心のドラマとなっている。

 グリゴーリイは僭称皇子(偽)ディミトリーを騙るが、エストニアではなくモスクワのゴドゥノフ殺害に向かう。最後に勝利を得て、凱旋する。

 だが、聖愚者が、不適切な人物が権力を握ったことで、ロシアの未来の決定的不幸を予言し、幕を閉じる。今の世界情勢を暗示するようなストーリーだ。


 ステージには透明なキューブがいくつも登場し、それがフョードルの居室になったりと、移動しながら様々な場面を形成する。衣装は現代で、スーツとネクタイ姿の貴族が会議を行う。

 ステージ奥のスクリーンにはおそらく中心人物のピックアップ画像が投影されていたようだが、今回観た4階最上段席では、上部の約4分の3は死角で何が投影されていたのか全くわからない。これは、理由がどうであれ、もう少し工夫と配慮が必要だろう。


 ということで、詳細なストーリーは一度観ただけではすっきりと理解できず(これは私だけかも知れない)、もう一度観ると隅々までわかりそうだが、演奏はともかく、このような暗い結末の設定だと、気が重くなり、個人的には二度と観たいとは思わない。ただ、現況の世界情勢を考えると、今回このオペラ公演が実現したこと自体素晴らしいことなのかも知れない。


 演奏は指揮の大野和士が素晴らしかった。手兵のオーケストラのためか、表現も響きも極めて充実しており、聞き応えがあった。最上段の席では、天井まで上がってきた響きがうまい具合にまとまり、舞台とは裏腹に、重厚なロシアの音楽世界が見事に展開されていた。

 観ていて胃の痛くなるような、不愉快なシーンであっても、場面ごとの音楽は、その心理的描写が見事に描かれていて、目を瞑って音楽だけ聴いていると、文句無しに素晴らしい。

 歌手陣は、ビーメンを演じたゴデルジ・ジャネリーゼの存在感と、偽ディミトリーの工藤和真の憎々しげな表現力が特に印象に残ったが、他の歌手達も声がよく出ていて、それぞれ素晴らしい出来だった。

 全編通じての合唱の迫力もいつになく見事。今日の公演が最終日ということもあり、出演者全員力を出し切っていたのかも知れない。

 音楽的観点だけで言うと、これは大野の指揮したオペラの中でも極めて良質で、最高の仕上がりだったのではないか。


2022/11/28

内田光子&マーク・パドモア


2022112419:00  東京オペラシティコンサートホール


主催 AMATI


ピアノ/内田光子

テノール/マーク・パドモア


ベートーヴェン:「希望に寄せて」(第2作)op.94

        「あきらめ」WoO14

        「星空の下の夕べの歌」WoO150

        「遥かなる恋人に」op.98

シューベルト:歌曲集「白鳥の歌」D957/D965a


   後半のシューベルトが凄かった。内田はもちろんの事、パドモアの歌も。人生経験豊富で教養豊かな語り部の話を聴くような、ちょっとなかなか経験できない演奏だった。

 パドモアは、かなり自由に詩と音楽を歌い、語る。詩の内容に応じて、声が生っぽかったり、裏声風で軽薄だったり、深刻だったり、絶叫調だったりと、その表情の変化、豊かさが素晴らしい。

 テンポは歌詞の内容により、変幻自在に変容し、イン・テンポで一曲が通して歌われることはない。その全体像をリードしているのは、内田の方なのかも知れないが、パドモアのあらゆる表情に対して音色と強弱を変え、ほぼ完璧にアンサンブルを組み立て、けっしてその語りを邪魔しない。一方で、消えるような繊細な前奏を聴かせてくれたり、かなりドラマティックな力強い表現で聴衆を圧倒し、驚かせてみたり、と、今までの歌曲の伴奏の常識を遥かに超えた、例えようのない凄みのある世界を築き上げていた。


 その内田のピアノは、まるでソロリサイタルのように、とも思うが、実はソロリサイタルの演奏よりもっと表現は多彩で、その幅も大きいような気がする。ピアノ作品であれば、どのような物語を今語っているのか、様々な選択肢を聴衆に示すために、比較的断言しない中間色で表現、演奏しているところが多い。しかし歌曲の世界では、今何を語っているのか、歌詞でその解釈を明確に具体的に示してあるので、ソロよりも、もっとダイレクトに、表現しやすいのではないだろうか。


 個々の歌曲で言えば、4曲目の有名な「セレナーデ」は、冒頭の前奏を1小節ずつ語るように「マンドリンの爪弾き(当日配布プログラム解説より)」のように演奏し、次の小節に進むときに絶妙な間がある伸縮自在なテンポで驚かされたが、フレーズの大きなまとまりは決して失わないところが凄い。ここでのパドモアは「声は熱っぽい夜の官能にもだえ(同)」とは縁遠い老賢者が過去を振り返るような語りだったが、内田のピアノは、それに合わせた清廉潔白で、静寂に満ちたもの。

 7曲目の「別れ」は、ピアニスト泣かせの「快活な騎行のリズム(同)」だが、決して快活ではなく、「複雑な別れの心理(同)」を表し、その気持ちの揺れを微妙に表現しているような、たどたどしさを感じさせた。

 それに続く「アトラス」での2人の、聴衆を驚かせた「苦難の絶叫(同)」のドラマティックな表現、第11曲「都会」での神秘的で「不気味な表情(同)」が秀悦。

 終曲の「鳩の使い」は、ピアノは「鳩のやさしい羽ばたきをあらわし、恋人との親密さを印象づける(同)」ように演奏し、人で全ての老若男女に対するメッセージを静かに語り続けているかのよう。そしてピアノの16音符のさりげない下降音型が何と美しいことか。


 これらは内田のピアノがあってこその表現だろうが、この2人のシューベルトのリートの世界は、シューマンやブラームスを通り越して、20世紀の音楽を先取りした先見性と現代性を鮮やかに表現していた。それはきっと、非ドイツ語圏の二人だからこそできた自由な表現によるものではないだろうか。特に内田の演奏は、陳腐な言い方かも知れないが、西洋人には無い、東洋人ならではの神秘的で繊細な感覚に満ちている。

 聴いていると,歌詞の意味が全てわからなくとも、今進行している歌の心理的な動き、深さが感じられ、ドイツリートの世界が到達した凄さが、全てではないにしても、この日の演奏会に現れていたような気がする。


 シューベルトの世界と比較すると、ベートーヴェンのリートは演奏家自身が自由に想像力を働かせて、ファンタジックに多彩な表現力で演奏してみよう、とさせる隙がないのか、あるいはそれを許さないのか。シューベルトほどのオリジナリティを感じさせず、それは「つまり2人の歌曲のありようは人類全体の友愛の理念か、個々の市民の小さな愛の幸せか(同)」というプログラム解説が全てを物語っていたような気がする。

 だが、後半のシューベルトがあまりにも強い印象を与え過ぎて、さすがのベートーヴェンも影が薄くなってしまったのが正直な印象だ。


 プログラム解説は喜多尾道冬氏。明快で作品を理解するには最適の素晴らしい内容。アンコールは無し。美智子皇后が後半からご臨席。

 なお、内田光子は札幌コンサートホールにはソロリサイタルと管弦楽団を率いてのコンチェルトとで数度来札し名演を聴かせてくれている。