札幌交響楽団第663回定期演奏会
2024年9月15日13:00 札幌コンサートホール Kitara大ホール
指揮 /尾高 忠明<名誉音楽監督>
ホルン /ラドヴァン・ヴラトコヴィチ
R.シュトラウス:13管楽器のためのセレナード
R.シュトラウス:ホルン協奏曲第2番
ワーグナー:「パルジファル」前奏曲
ワーグナー:ジークフリート牧歌
ワーグナー:「タンホイザー」序曲
常日頃、尾高/札響にはR.シュトラウスとR.ワーグナーが最もよく似合う、と思っていたが、今回やっとそのプログラムが実現、期待に応える見事な演奏を聴かせてくれた。
素晴らしかったのは後半のワーグナー。尾高は、誰もが知る通り英国音楽のスペシャリストで、心に残る名演がいくつもあるが(例えば、22年6月の「尾高忠明presents偉大なる英国の巨匠たち(札幌文化芸術劇場)」)、英国音楽の気質のためか、いつも冷静で客観的な解釈だった。しかし、今日のワーグナーは、何よりも尾高の気質がオブラートで包み隠されることなく自然に発露されていて、それがワーグナーの音楽の性格と見事に一致していて、とても心地よい瞬間の連続だった。もちろん、いつものように、演奏は尾高らしく細部まで配慮が行き届いた品の良さを感じさせる名演だった。
力で押し通すところや、もちろん破綻は一切無く、オーケストラは今まで聴いたことのない黄金のバランスとも言えるのか、実によく熟成された響きだ。どのセクションも自らの役割を主張しながらも、いつも以上にお互いによく聞き合っていて、全体が見事に調和しておりそのバランス感覚は申し分ない。おそらく尾高が常任指揮者時代だった10年程前の時代と比較しても、尾高も札響も大きく変貌を遂げた結果だろう。今のこの時期だからこそ実現した名演とも言えるだろう。
パルジファル前奏曲は冒頭の聖餐の動機の表現力の高さに思わず惹きつけられた。この表現力が、今日の尾高/札響の好調ぶりを示す何よりの結果だろう。その後の聖杯の動機の調和の美しさなどあげればきりがないが、これだけの魅力的な表現であれば、この組み合わせでオケピットに入ってもらいぜひ全曲を鑑賞したくなるような、この作品特有のある種の耽美的美しさ、息の長いフレージングなどを充分伝えてくれた演奏だった。
ジークフリート牧歌は、ガラリと雰囲気が変わって、楽しげで明るく、ワーグナーが最も幸せだった一瞬を捉えたような名演。札響で何度も聴いてきた作品だが、これほど明るく伸びやかに表現された演奏は初めてだ。
最後のタンホイザーは、特筆すべきはホルンセクションの見事にコントロールされた卓越した表現。オーケストラ全体も同様にとても落ち着いた表現と響きで、これほど技術的にも音楽的にも突出した演奏は札響で今までに経験したことがないもの。
そしてこれらの演奏を聴きながら、過去に観た公演の様々な場面が、〜パルジファルでは14年の新国立劇場、タンホイザーでは17年9月のバイエルン国立歌劇場(指揮はペトレンコ)や23年2月の新国立劇場(急逝したシュテファン・グールドが歌っていた)〜次々と思い出され、今日のパルジファルとタンホイザーは、ともに全幕のストーリーのイメージをダイジェストでまとめ上げたように感じさせる見事な透視力も同時に備えていた演奏でもあった。
ワーグナーと比べると、前半のシュトラウスは指揮者よりは個々のソリストの腕前の素晴らしさに依存するところが強く、尾高の個性を楽しむ瞬間は少なかったのが残念。何か交響詩を一曲聴きたかったところだが、これは次回の楽しみに取っておくことにしよう。
とはいえ、冒頭のセレナードでの管楽器セクションの各パートの表現力の豊かさは、後半に聴くワーグナーの名演を予感させたし、ホルン協奏曲でのヴラトコヴィチの見事な腕前はそうそう聴けるものではない一級品の演奏で、これは文句なしに楽しむことができた。
協奏曲でのソリストアンコールは、札響ホルンセクションと一緒にロッシーニ/狩のランデヴー。これは素敵な演奏で、楽しかった。
コンサートマスターは田島高宏。