J.S.バッハ:
ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ
全曲演奏会
2025年6月15日16:00 ふきのとうホール
ヴァイオリン/若松 夏美
チェンバロ/大塚 直哉
第6番 ト長調 BWV1019
第5番 へ短調 BWV1018
第4番 ハ短調 BWV1017
第1番 ロ短調 BWV1014
第2番 イ長調 BWV1015
第3番 ホ長調 BWV1016
とてもいい演奏会だった。難曲で演奏機会の少ない名作だが、今回はこの分野での飛び切りの名手2人が揃ったため、期待通りの名演を聴くことができた。全曲演奏は札幌では初めてだろう。 若松夏美のヴィオリンを初めて聴いたのはおそらく1986年の第1回都留音楽祭。柔らかく力の抜けたボーイングから奏でられるすっと伸びる美しい音色に魅了させられたのを鮮明に記憶している。あれから40年近く経つが、そのテクニックと音楽性は豊かな経験でさらに磨きがかけられ、より表現の幅が広がったようだ。大塚の安定感あるチェンバロの演奏とともに、モダン、バロック含めて現在望みうる最高の2重奏だったといっても過言ではないだろう。
バッハ自身この独創的な作品集を大変気に入っていたようだ。作曲された1725年頃と1740年代後半のバッハの弟子による筆写譜があり、ともにバッハの注釈が記入されている。通奏低音無しの2重奏は当時革新的な演奏形態で、バッハは晩年までそれを強く意識し、さらに改訂を加えようとしていたようだ。
演奏は、曲集の順番通りではなく、第6番から、と変則的。バッハはおそらく第1番から順番に演奏、あるいは聴いていくと2重奏曲の基本形から発展形までを辿っていけるように曲集をまとめあげたのに違いない。そう考えると第6番は、バッハにとってこのジャンルでの一つの到達形になるが、今日の演奏者2人は当然それを意識しての演奏だっただろう。
アクティヴで躍動する溌剌としたリズム感に満たされ、両者が対等で表現する第1楽章と第5楽章、両者の陰影豊かな対話が印象的な第2楽章と第4楽章、求心的で迫力あるチェンバロソロの第3楽章、いずれも説得力ある秀演だ。
こうした圧倒的な演奏で聴いてみると、バロック時代の枠をはるかに越えた斬新なスタイルの2重奏曲であることがよくわかる。この作品の凄さ、独創性を余すところなく伝えてくれ、今日の演奏会の今後の展開を期待させる見事な演奏だった。
続く第5番は定番通りの緩ー急ー緩ー急の4楽章だが、例えば第1楽章でのチェンバロの対位法的動きとヴァイオリンの1小節を超える持続音の対比の美しさ、第3楽章でヴァイオリンが2声の和声を演奏する一方でチェンバロが装飾的アルペジオ音型を演奏するユニークな対話の美しさなど、この作品の独創的アイディアを存分に味わうことができた名演だったと言える。
第4番の冒頭のシチリアーナはどこか懐かしさを感じさせる美しさが、また、速い楽章では両者の対話の見事さが伝わってきた。この作品では、特に両者の音域が、それぞれのパートが明確に聴こえるように書かれていて、第6番のように完全に対等な書法とは違った配慮がなされているのを感じさせてくれた。
後半の冒頭、第1番はこれぞ理想的なバロック時代の2重奏、と強く認識させた隙のない、ほぼパーフェクトの演奏。両者の楽器の特質の違いとそれを生かしたバッハの書法がこれほど豊かに表現された演奏は初めてだ。
若松の重音の美しさ、すっきりとホール全体に抜けきった音色、心地よいピッチと歯切れ良いリズム感など、申し分ない。大塚の安定したテクニック、豊かなアーティキュレーション、2人の息のあったアンサンブルなど、どれをとっても理想的。
続く第2番では、第1番から見事に舞台転換されたオペラのステージを見るような、鮮やかな表現の転換を披露。イ長調の伸びやかな広がりのある表情がとても素敵だった。
最後のホ長調の第3番では第1楽章のチェンバロの厚い和声奏法、第3楽章でのバッハには珍しい単純過ぎる和声伴奏形とヴァイオリンとの見事な対話など、次第にこの作品集ならではの独創的な書法が次々と登場する姿が見えてきた演奏。それぞれ生き生きと、時にはハッとさせるような表現もあり、実に聞き応えがあった。
こうして全曲を通して聴いてみると、個人的な好みを言うとやはり第1番から順番に聞いて行った方が、作品が次第に独創的表現を高め変容していく姿が感じられ、より楽しみが増えるように思える。
しかし、今日の2人は、このバッハの究極の2重奏作品が持つ強烈な個性に負けることなく、一つ一つの細かいモティーフを的確に表現し、それらを積み上げながら、オリジナリティ豊かなスケールの大きな作品に仕上げてくれた。その鮮やかな演奏と、素晴らしいかつタフな感性に今日は大きな拍手を贈りたい。
なお大塚の演奏したチェンバロは昨年、小林道夫(ゴルトベルク変奏曲演奏会、8月31日)が弾いた楽器で、このホールの所有。2013年に帯広六花亭のために大塚がコーディネートして発注したカッツマンの楽器で、ふきのとうホールのオープンに合わせて札幌に引越ししたようだ。粒立ちがはっきりした明瞭な音色で、今日の2重奏には最も相応しい楽器だったとも言える。