2025/11/21

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団


2025年11月19日19:00  サントリーホール


指揮/キリル・ペトレンコ

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 


ヤナーチェク:ラシュスコ舞曲

バルトーク:『中国の不思議な役人』組曲

ストラヴィンスキー:バレエ音楽『ペトルーシュカ』(1947年改訂版)



 個人的には、ペトレンコは2017年、バイエルン国立歌劇場日本公演で「タンホイザー」を、ベルリン・フィルは2019年ズービン・メータで来日公演「ブルックナー交響曲第8番」を聴いて以来。当時のペトレンコは同歌劇場の総監督で、室内楽的な透明な響きと均整感ある美的センスに優れた上演、一方のメータのブルックナーはあちこち重要な入りのポイントを指示するだけで、あとはオーケストラが自主的に音楽を作り上げた重厚な演奏だった。

 超弩級のオーケストラだけあって、その昔、カラヤン時代の来日公演では1977年と79年に集客を見込みクラシック向きではない4700席の普門館で行い、批判も多かった。かく言う筆者は79年の来日公演をこの会場の上の席で聴いたが、さすがのカラヤン/ベルリン・フィルもはるか遠くで頼りなく響いていたことを覚えている。モーツアルトのレクイエムとブルックナーのテ・デウムだった。

 

 そういう数少ない、しかし強く記憶に残る色々な思い出をたどりながら今日の演奏を聴いてみると、やはりこれは今まで聴いた中でも、抜群でものすごいオーケストラであることを再認識。

 プログラムは20世紀を代表する東欧作曲家の舞踏をテーマにした、なかなか渋い曲目。普通のオーケストラだと地味なプログラムだが、ベルリン・フィルにとってはこれは舞踏音楽の、多彩な性格を持つ作品の面白さを伝えるというよりは、明らかに自らのオーケストラの抜群の機能を披露するためのものだ。

 ペトレンコは、柔軟なバトンテクニックと要所要所を確実に締めた見事な統率力でオーケストラを自在にドライヴ、その能力を存分に引き出していた。オーケストラはどこも手を抜かず全力投球。疲れを知らないダイナミックな表現は、他のどのオーケストラからも聴くことのできないすざましいものだ。


 ヤナーチェックはおそらくもっと地味で田舎くさい作品なのだろう、弦楽器の厚く豊かな音色が何となく違和感を感じさせたが、そういうローカリティーよりも民謡を素材にして、世界に通用するシンフォニックな作品にしようとしたヤナーチェックの国際感覚の意図を反映させた演奏なのだろう。作品の素朴さに演奏者がやや戸惑いがちに、しかし、壮大なスケールで演奏している様子が伺われ、そこが面白かった。


 バルトークはパントマイムのための作品だが、組曲版はよりコンサートピースとしての性格を重視したまとめ方なのだろう。オーケストラの緊張感ある鋭く全く隙の無い表現が、バルトークの気性の激しい異常とも言える貪欲な表現意欲を彷彿とさせ、一瞬たりとも聴き手を飽きさせない演奏だった。

 ただし、この作品でのピアノパートは明らかにバルトーク自身の卓越した腕前を披露するために書いたもので、もちろん音楽的にも重要な役割を持っているはずだが、それがほとんど聴こえてこないのが残念。今日は上手奥にピアノが配置、バルトークだったら最もよく聞こえ、かつ奏者がよく見える位置に配置したことだろう。しかしながらピアノの存在を忘れさせる力強いオーケストラ演奏だったことも確かではあるが。


 後半のストラヴィンスキーは、もうこれで充分、これ以上求めない、という圧倒的な演奏。管楽器群の卓越したソロ、これらは単に上手いだけではなく、情景に即した上品な表現や時々下品にもなる多彩な表情、弦楽器の分厚く鳥肌の立つような底力のある響き、また謝肉祭で賑わう市場や、人形達の不器用な踊りなど、バレエのシーンを想起させるようなきめ細かい表現もあり、単なるコンサートピースとして終わらず、ストーリーのある壮大なドラマとしても聴かせてくれた。

 バルトークでは埋もれていたピアノソロが、もちろん目立つような書法でもあるが、この作品では明瞭に聴こえてきて存在感を示していた。

 アンコールは無し。コンサートマスターは樫本大進。

 アルバン・ベルク

ヴォツェック

2025年11月18日14:00  新国立劇場


【指 揮】大野和士

【演 出】リチャード・ジョーンズ

【美術・衣裳】アントニー・マクドナルド

【照 明】ルーシー・カーター

【ムーヴメント・ディレクター】ルーシー・バージ

【舞台監督】髙橋尚史


キャスト

【ヴォツェック】トーマス・ヨハネス・マイヤー

【鼓手長】ジョン・ダザック

【アンドレス】伊藤達人

【大尉】アーノルド・ベズイエン

【医者】妻屋秀和

【第一の徒弟職人】大塚博章

【第二の徒弟職人】萩原 潤

【白痴】青地英幸

【マリー】ジェニファー・デイヴィス

【マルグレート】郷家暁子

【合 唱】新国立劇場合唱団

【児童合唱】TOKYO FM 少年合唱団

【管弦楽】東京都交響楽団



 舞台設定は1960年代の陸軍駐屯地で、各幕の様々な場面はほぼ全てこの駐屯地仕様の安っぽい兵舎風の小屋で表現される。場面転換は人力で小屋を入れ替える仕組みで、これを敢えて見せることで兵士達の過酷な使役を強調する役割を持っているようだ。

 第一幕冒頭ではヴォツェックが下手側の保存庫らしきところから豆の缶を取り出し、貪るように食べ、上手側にあるゴミ箱に空き缶を捨てる。これを何度も繰り返す。原作オペラにはないシーンだ。医者が登場する場面で語られるが、医者の実験台となって報酬をもらっているヴォツェックが、豆を食べろ、という医者の指示を忠実に守っていることをここで伝えたかったのだろう。

 続くヴォツェックが大尉の髭を剃る場面はビリヤード会場で、しかもビリヤードをしているのは鼓手長で、それを見守る一兵卒たちがゾロゾロといる。髭剃りは電気カミソリだ。以上は原作にないが違和感はない。ここで大尉、鼓手長の支配者層は赤、それよりも地位の低いヴォツェックと一兵卒たちは黄色の服と、色によって階級分けされている。

 マリーの部屋は白黒のブラウン管テレビとソファーが一つ。マリーの子供は食い入るようにテレビを見ている。テレビの画面は遠くからだとよくわからないが、おそらく戦争のシーン。

 続く医者の研究室のシーンでは、冒頭でヴォツェックがいきなり研究室入り口の前で放尿をする。原作の戯曲が咳ではなく小便だそうで、従ってオリジナルへの変更だ。オペラ原作の咳が全て小便に入れ替わっている。これはあまりいい感じはしない。それでなくとも不潔感の漂うオペラだが、この放尿によってそれがさらに強調される。

 マリーを誘うマッチョな鼓手長の部屋はトレーニングルーム。ここで不倫関係になるわけだが、そのシーンは部屋を後ろ向きで回転させることによってより観客に想像力を深める役割を持つ。

 居酒屋のシーンではマルグレートを中心に全員でラインダンスを踊る。小屋は見せもの小屋風に、床が高くなってその上にバンド類が乗り音楽を奏でる。居酒屋の客はそれを観ている観客でもあるのだ。

 肝心のマリーが殺される沼のシーンはセットではなく、照明で舞台を円形に照らして沼を表現。マリーを殺す刃物は原作のナイフではなく、缶詰の蓋で(これは席種によってはわからない)、缶切りで開けているのでギザギザになっている。殺されたマリーは続く居酒屋のシーンでもヴォツェックの腰掛けた椅子の下に横たわったまま。一呼吸おいて、ヴォツェックが沼に沈み、自殺するシーンは舞台の上下動機構を使って舞台から消える。この沼のシーン、もっと照明を駆使して派手に演出するかと思ったが、意外とシンプル。音楽がすざましいので、ここは演出家が余計な仕事をする箇所ではないようで、正解だ。

 最後子供達が遊びながらマリーの子供にお前のお母さんは死んだ、と伝えるシーンは、冒頭のビリヤードの小屋に戻り、大尉の椅子に赤い制服を着た子供が座っている。最後はマリーの子供がヴォツェックが豆の缶を持ち歩いていた位置に立ったまま幕が下りる。呆気ない結末だが、意味深な終わり方だ。


 以上大雑把に見てきた舞台進行の半分以上は新国立劇場HPの事前情報から得たもの。当日初めて見ただけでは半分も理解出来なかっただろう。

 SNSで事前情報を得るのは当然なのかもしれないが、販売プログラムにネタバレにならない程度に演出のコンセプト、舞台設定など鑑賞の手引きをもう少し詳細に記載して欲しいところだ。


 演奏の面では、大野和士の指揮が抜群の仕上がり。今日はいつになくオーケストラの音がクリアに聴こえてきて、セッティングを変えたのか、と感じるほど。かなり説得力のある幅広い表現が聴こえてきて、この作品のオーケストラパートがいかに見事にドラマを語っているかを如実に示してくれた熱演。

 歌手では主役のヴォツェックを歌ったトーマス・ヨハネス・マイヤーが秀逸。不器用さと諦めに、内面に潜む激しい反抗心、体制に対する復讐心のような陰鬱とした強い感情が加わって伝わってきて、この名作オペラを充分堪能することが出来た。

 マリーのジェニファー・デイヴィスは色っぽさと生真面目さが奇妙に対比する戸惑いの多い気分がよく伝わってきて、かつその魅力ある声は申し分なかった。

 マッチョな鼓手長のジョン・ダザック、大尉のアーノルド・ベズイエンも好演。ヴォツェックをアゴで使う目線の高さと人間性が欠如したいやらしさが感じられ、存在感充分。医者の妻屋は多少真面目過ぎた嫌いもあるが、兵士達とは違う格の高さを感じさせた好演だった。その他の日本人スタッフも力演。

 短編オペラだが、世界のどの場所、どの時代にもありそうな階級社会の暗闇を見事に表現した傑作舞台作品であることを改めて認識。特に今日の公演は音楽と舞台が見事に一致した名演だったといえよう。



2025/11/09

 森の響フレンド

札幌交響楽団名曲コンサート

エリアスとウィーンへ


 2025年11月 8日14:00 札幌コンサートホールKitara大ホール

指揮/エリアス・グランディ<札響首席指揮者>

ソプラノ / 中江 早希*

管弦楽/札幌交響楽団


ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」

ヨハン・シュトラウス II ワルツ「南国のばら」

ヨハン・シュトラウス II 喜歌劇「こうもり」より”私の侯爵様”*

ヨハン・シュトラウス II ピツィカート・ポルカ(ヨーゼフ・シュトラウス共作)

ヨハン・シュトラウス II ワルツ「春の声」*

ヨハン・シュトラウス II トリッチ・トラッチ・ポルカ

ヨハン・シュトラウス II 喜歌劇「こうもり」より”田舎娘を演じる時は”*

ヨハン・シュトラウス II ワルツ「美しく青きドナウ」



「田園」交響曲は、昨年2月のhitaru定期での広上以来。今日のように、12型で、対抗配置の場合はやはりKitaraで聴く方が響きのバランスがいいようだ。

 グランディの「田園」はオーソドックスで、均整感のある落ち着いた演奏。劇的に盛り上げたり、テンポを動かしたりなど、気を衒ったところは一切ない。心地よい中庸のテンポで、ピアニッシモからフォルテッシモへ移行するディナーミクなど、音楽がごく自然に流れ、聴きやすかった。

 今日は特に弦と管のバランスがとてもよく、弦楽器のふくよかで自然な響きに管楽器セクションの伸びやかで明るいソロが程よく溶け込んで聴こえてきて、久しぶりにいい気分で鑑賞出来た「田園」だった。この指揮者の人柄の良さが伺える演奏でもあった。

 

 後半は生誕200年を記念して、ヨハン・シュトラウス II世の作品ばかりのプログラム。北海道出身の中江早希がソリストで登場。

 「私の侯爵様」と「春の声」ではまだ調子が出なかったのか、ちょっと深みのある声とリズム感は、違う国のオペラ物で本領発揮かな、という気がしながら聴いていたが、しかしソロ最後の「田舎娘」では伸びやかで表情豊かな声が聴こえてきて、満席の場内を大いに盛り上げた歌唱を披露してくれた。


 オーケストラだけのワルツ、ポルカ集では、ウィーン風のニュアンスを醸し出し、明るい雰囲気の情緒豊かな演奏で楽しませてくれた。あちこちでグランディの指示する微妙なニュアンスにオーケストラが反応し切れなかったりと、ハプニングも少なからずあったにせよ、各曲それぞれの気分をよく生かしたいい指揮ぶりだった。往々にして大雑把な演奏を聴く機会の多いシュトラウス物だが、今日のグランディは、首席指揮者の名に恥じない内容だったとも言えよう。アンコールにポルカ「雷鳴と稲妻」。

 コンサートマスターは会田莉凡。

2025/11/07

 北星学園大学チャペルコンサート

大森潤子バッハ無伴奏ヴァイオリン演奏会

2025年11月6日12:20 北星学園大学チャペル


ヴァイオリン/大森潤子


バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV 1001

    無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番 二短調 BWV 1002



 バッハの無伴奏ヴァイオリン作品全曲を大森潤子の演奏で年に一度、2曲ずつ演奏し3年で完結するシリーズで、今回が6巡目のスタートとなる演奏会。一人の演奏家によるバッハの無伴奏を何度も繰り返し聴いていくユニークな企画。

 前回聴いたのは一昨年の2023年11月。この時は各第2番を演奏していたので、聴き逃した昨年は恐らく各第3番を演奏して5巡目を終了したのだろう。

 配布プログラム解説によると、昨年からバロック弓を使用して演奏し、それに加え今年はさらに415のバロックピッチで演奏するとのこと。ただし、楽器と弦は従来から愛用しているモダン仕様のものと思われる。従って前回2023年と異なる点はバロック弓の使用と半音低い415のピッチによる演奏。


 元来モダン仕様の楽器を、弓とピッチをバロック仕様に変えて演奏することはかなり難しい試みだ。しかし、そこはさすが大森で、充分説得力のある演奏ができる確信があったのだろう、チャペル全体に落ち着いた柔らかい響きが広がり、聞き応えの演奏だった。

 バロック仕様だと、一般的には表情が柔らかく繊細な雰囲気になりがちだが、しかし、この人が弾くと、線が太く、生命力のあるたくましく力強いバッハ像が伝わってくる。これは彼女の持つオリジナリティなのだろう、懐の深さを感じさせた演奏だった。各曲ごとの性格の違いがそれぞれ的確に描かれていたが、特にソナタでは第2楽章のフーガのクリアな表現、パルティータでの終曲の力強い表現が印象深かった。


 ただし、恐らく弦のテンションと弓のバランスが完全になじみきっていないとこがあったようで、ところどころ音程や表情、アーティキュレーションが曖昧になるところがあったのは惜しい。

 一方で、とピッチだけバロック仕様でも、現代の楽器を使用するのであれば、基本的にバッハの時代のバロックヴァイオリンとは仕様と音色が異なるので、折衷案としてそのギャップをどう解決した演奏法になるのか。次回はその解答案が提示される演奏を聴かせてくれることだろう。次回が楽しみだ。

2025/10/20

 札幌交響楽団 第672回定期演奏会

 2025年10月19日13:00  札幌コンサートホールKitara大ホール



指揮 /トーマス・ダウスゴー

ヴァイオリン /竹澤 恭子

管弦楽/札幌交響楽団


ランゴー:弦楽四重奏曲第3番「ラビア(怒り)」(T.ダウスゴー編曲版)

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

ニールセン:交響曲第4番「不滅」


 ダウスゴーは2023年7月のPMFで札幌登場、今回が2度目の来札。前回は必ずしも全てが好印象というわけではなかったが、今日は全体的にいい仕上がりの演奏会だった。

 ブラームスは2023年6月の名曲シリーズで、シュトイデがコンサートマスター兼ソロを弾いて以来。協奏曲としての仕上がりは指揮者がいる今日の方が断然素晴らしい。竹澤は札響定期の常連で、今回も完成度が高く、やはり何度も繰り返し聴いてみたくなる演奏家だ。


 まずダウスゴーがオーケストラからいい音を引き出し、見事にまとめ上げていた。客席から指揮ぶりを見ていると、どことなくぎこちなく見えてソリストとの合わせは大丈夫か、と一瞬不安になったが、これは全く心配なし。

 竹澤は各セクションとより明確なコンタクトを取るために、色々な方向を向いて演奏し、指揮者の如く積極的にオーケストラをリード。キャリアの豊富さを感じさせるいいアンサンブルを作り上げていた。前回のシュトイデのように素っ気なくやや事務的だった音楽進行と比べると、協奏曲の醍醐味を聴衆に示してくれた秀演と言えるだろう。

 ステージ上でソリストが動きすぎると、人によっては音量がガラリと変化し、興醒めになる例も多いのだが、少なくとも今日座った席で聴く限りではほとんど気にならなかった。

 もちろん繊細な表情や、作品にふさわしい風格、スケールの大きさも申し分なく、ソリストとしても見事だった。

 アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタから。これは美しく良く歌い込まれた素敵な演奏だった。


 ニールセンは、定期では1988年12月の秋山和慶氏以来だそう。著名な指揮者の録音が多い作品だが、実際には全曲をライブで聴く機会はほとんどない。

 今日の演奏はいいリズム感に支えられたすっきりとした爽快な演奏。弦、菅のバランスがとても良く、充実したしかも引き締まった響きで全体をまとめ上げていた。日頃聴き慣れている日本人指揮者からは感じられない歯切れの良さと逞しさが感じられ、とても気持ちの良い演奏だった。

 滞るところや理屈っぽいところがなく、常に明晰。ただ、出自が同じデンマークということもあってか、アクセントとか、民謡風のメロディーの歌い方など独特の世界観があるようで、それが上手く作用したようだ。失礼ながらニールセンがこんなに聞き応えのある作品とは思わなかった。


 他に冒頭にダウスゴーの編曲で、デンマーク出身のランゴーという作曲家の弦楽四重奏曲のオーケストラ版。第3楽章のコラールは、オルガン席前に弦楽カルテットが配置され、カルテットとステージ上のオーケストラが対話するように演奏されていた。プログラム解説によるとダウスゴー自身は普遍的魅力を感じているようだが、様々なモティーフが交錯し、普遍性よりも個人的思い入れが強すぎる作品のように思えた。これはまた改めて違う機会に聴いてみたい作品だ。

 コンサートマスターは会田莉凡。





2025/10/12

 第26代札幌コンサートホール専属オルガニスト

赤枝 サンテソン 留果 デビューリサイタル


2025年10月11日14:00  札幌コンサートホールKitara大ホール


オルガン/赤枝 サンテソン 留果 Luca Akaeda Santesson

      (第26代札幌コンサートホール専属オルガニスト)


J.S.バッハ:前奏曲とフーガ ニ長調 BWV532
        さまざまな手法による18のライプツィヒ・コラール集より 

       バビロンの流れのほとりで BWV653
メンデルスゾーン:オルガン・ソナタ 第3番 イ長調 作品65-3
レーガー:序奏とパッサカリア ニ短調 Wo0 4-6
グリニー:来たり給え、創造主なる聖霊よ
アラン:組曲 AWV86
デュプレ:サンフォニー・パッション 作品23より 第4楽章「復活」


 2001年生まれの24歳。 Kitaraオルガンから柔らかくすっきりと抜けてくる美しい音色と、バランスの良い力強い響きを引き出すことができるいいオルガニストだ。日本最高峰のオルガンからこのような充実した響きを聴いたのは久しぶり。

 全体的によく考えられたプログラムで、前半にドイツ、後半にフランスの作品を歴史順に演奏し、約300年のオルガン名曲を概観する形で紹介してくれた。

 今日聴いた限りでは後半のフランス作品が良かったが、前半はデビューリサイタルということでかなり硬くなっていたようで、フランス物に限らず、幅広いレパートリーを持っているように思われる。


 後半の冒頭、グリニーは音色がきれいで、語り口が自然。歴代Kitara専属オルガニストの中には、フランス風イントネーションのニュアンス豊かな名演を聴かせてくれた人も多かったが、今日の演奏もそれらに負けず劣らずの好演。落ち着いた歌い方で、輪郭が明瞭。しかも固くならず、作品の基礎情報をしっかりと伝えてくれた演奏で、5曲それぞれの性格が良く表現されていてとてもわかりやすかった。

 続くアランでは、本人のトーク解説にもあったとおり、雰囲気がガラッと変わってモダン一色。音色は柔らかく、表情が多彩で色彩豊かな演奏。オルガンの響きがホールと馴染んできたようで、全体的に美しい音色。アランは歴代専属が得意としていたレパートリーだが、その中でも、一二を争う快演の一つだろう。

 最後のデュプレは、静かなオープニングから、壮大なフィナーレまでスムーズな流れがとてもよく、オルガンの最強音が割れずにホール全体に豊かに響き渡り、鮮やかで気持ちの良い演奏だった。

 アンコールにバッハのト短調の小フーガ。これが実に端正な演奏。レジストレーションはバランスがよく、心地よい響きがする組み合わせ。形が全く崩れず、終始一貫したテンポの中で、細かいニュアンスがとても表情豊かに表現されていて、これは久しぶりに聴いた立派なバッハ。確か札幌市内小学六年生全員を対象としたKitaraファーストコンサートの中でも演奏されるはず。子供たちにいいプレゼントになりそうだ。


 前半はレーガーが充実した響きで中々の力演。歴代専属が何度もレーガーの作品を聴かせてくれたが、失礼ながらこの作曲家は何度聴いてもあまり親しみがわかない。しかしながら今日の演奏は、パッサカリアという作品の性格もあるのかもしれないが、わかりやすく、レーガーを身近に感じさせてくれた演奏。それまでちょっと不安だった響きのバランスがこの作品で見事に整い、重厚な響きで聴こえてきて、前半の締めくくりに相応しい仕上がりだった。

 冒頭のバッハ、続くメンデルスゾーンはもちろん水準以上の演奏ではあったが、後半のフランス物やアンコールを聴いた印象から言えば、もっと柔軟で表現力のあるいい演奏を聴かせてくれるはず。また違う機会に是非聴きたいものだ。