2025/06/30

 札幌交響楽団第670回定期演奏会

2025年6月29日13:00 札幌コンサートホールKitara大ホール


指揮:エリアス・グランディ

チェロ:ユリアン・シュテッケル

ヴィオラ:近衞剛大

管弦楽:札幌交響楽団


R. シュトラウス/交響詩「ドン・キホーテ」

ラヴェル/「ダフニスとクロエ」第1組曲、第2組曲



 今日は16型の大型編成で山台を使用しての対向配置。グランディの時はほぼこのパターンのようだ。記憶が定かではないが、山台の高さは前回定期同様に、低めに滑らかな階段状に設定されており、全体的な響きは安定し、まとまってきたように思う。

 プログラムは定期ならではの豪勢なもので、聞き応えがあった。

 大型編成の効果が存分に発揮されたのは後半のラヴェル。第2組曲は聴く機会が比較的多いが、2つの組曲を一度に聴く機会はほとんどない。

 実際、第1組曲は札響初演だそうだ。各組曲は3曲ずつで構成されているが、それぞれ続けて演奏され、大規模な2つの作品を聴くのと同じようでもある。

 グランディは細部を丁寧に仕上げながらも全体を流麗でスケール感豊かに表現し、これは快演。

 特に管楽器群が素晴らしく、どのセクションも皆音色がきれいで響きがまとまっている。見事にコントロールされた表現で、当然のことながらどこかが飛び出たり、生の響きが聴こえたりすることは全くない。指揮者の指示もいいのかもしれないが、それ以上に彼らの優れたバランス感覚が素晴らしい。

 弦楽器は大きな音を出す、というよりは大きな一つの響きを生み出し全体的に一体となって深みのある響きを創出していて、ハーモニーもきれい。とても聴きやすく、ラヴェルの豪奢な響きをたっぷりと堪能できた演奏だった。


 前半のR. シュトラウスでは、まずチェロのユリアン・シュテッケル、ヴィオラの近衞剛大の2人がそれぞれ存在感のあるソロを聴かせてくれた。

 全体的な仕上がりはスマートでまとまりがある。それぞれのヴァリエーションごとの特徴を強調するというよりは、大きく全体をまとめ上げる方に主眼があったように思える。従って物語の筋を追う楽しみよりは音楽そのものを味わう演奏だったように思う。

 滅多に聴けないウィンドマシンは比較的地味な扱い方で、全体的にはやや薄味の仕上がり。大規模編成の効果があまり感じられなかったのが少々不満ではあったが、トータルとしては透明感のある美しい響きの上質なシュトラウスだった。

 コンサートマスターはいいソロを聴かせてくれた会田莉凡。

2025/06/21

 札幌交響楽団hitaruシリーズ定期演奏会第22回

 2025年6月19日19:00   札幌文化芸術劇場 hitaru


コンサートマスターとヴァイオリン独奏 / フォルクハルト・シュトイデ


モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」

ジョン・ウィリアムズ:「シンドラーのリスト」より3つの小品

ドヴォルジャーク:交響曲第8番


 


 シュトイデは2023年(6月17日札響名曲)以来の登場。曲の導入と、ところどころ重要なポイントだけ指示をして、あとは自ら演奏しながらリードしていくというのが基本で、これはいつものスタイル。今回は大曲のドヴォルジャークを含む重量級のプログラムだ。


 モーツァルトはシュトイデクラスの演奏家だとお手のものだろう、と思っていたが、意外と大変そうに演奏しており、やはりモーツァルト、一筋縄ではいかないようだ。

 とは言え、ごくたまに輪郭が不鮮明になるところがあったにせよ、美しい音色や多彩で奥行きを感じさせる表現など全体的な仕上がりはさすが。 

 シュトイデはソロに専念してオーケストラへの指示はほとんどなし。オーケストラは荒さがあったにせよ、指揮者に統率されている時には感じられない積極性があり、これがなかなか聴いていて楽しく、とても気持ちのよい演奏だった。


 このhitaruシリーズは現代作品を必ず一曲プログラムに加える、というのがコンセプト。ジョン・ウィリアムズはポピュラリティがあり、聴きやすく、わかりやすい。シュトイデのソロ、オーケストラとも表情豊かで、起承転結が明快で良かった。映画を観て知っている人はもちろん、そうでない人にも背景にある重い事実を感じさせるシリアスさも持った演奏だった。


 ドヴォルジャークは、アクティヴで前向き、かつスケールの大きな表現で、冒頭のモーツァルト同様、実に生き生きとした演奏。これはやはりシュトイデの音楽性のみならず、優れたリーダーとしての能力、キャラクターがあってこそなのだろう。

 こじんまりとまとまることなく、全員が一つの方向に向かって積極的に演奏しており、これは普段の演奏からは聴けない演奏だ。

 特に見事だったのは最終楽章。冒頭のトランペットソロは今まで聴いたことがないような抜けの良いすっきりとした音色で、全く迷いのない演奏。続く変奏曲の主題のチェロの表情が意欲的で実に多彩。変奏ごとに登場する管楽器のソロなど、伸びやかに、かつ皆楽しげに演奏しているのがとても印象的。

 もちろんシュトイデ率いる弦楽器セクションの思い切りのいい表情が実に素晴らしく、全体の牽引者。オーケストラの様々なセクションに活躍の場を提供するこの作品を選んだシュトイデの選曲が光る。ドヴォルジャークの意図をこれほど見事に再現してくれた演奏は初めてだ。

 荒削りだったり、神経質な指揮者だったら修正してしまうようなバランスの箇所があったにせよ、指揮者抜きゆえに見えてきたフレッシュなドヴォルジャークの姿が浮かび上がってきて、とても面白く、楽しく聴けた演奏だった。アンコールに同じドヴォルジャークのスラブ舞曲。


2025/06/16

 J.S.バッハ:

ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ

全曲演奏会 

2025年6月15日16:00 ふきのとうホール


ヴァイオリン/若松 夏美

チェンバロ/大塚 直哉


第6番 ト長調 BWV1019

第5番 へ短調 BWV1018

第4番 ハ短調 BWV1017

第1番 ロ短調 BWV1014

第2番 イ長調 BWV1015

第3番 ホ長調 BWV1016



 とてもいい演奏会だった。難曲で演奏機会の少ない名作だが、今回はこの分野での飛び切りの名手2人が揃ったため、期待通りの名演を聴くことができた。全曲演奏は札幌では初めてだろう。

 若松夏美のヴィオリンを初めて聴いたのはおそらく1986年の第1回都留音楽祭。柔らかく力の抜けたボーイングから奏でられるすっと伸びる美しい音色に魅了させられたのを鮮明に記憶している。あれから40年近く経つが、そのテクニックと音楽性は豊かな経験でさらに磨きがかけられ、より表現の幅が広がったようだ。大塚の安定感あるチェンバロの演奏とともに、モダン、バロック含めて現在望みうる最高の2重奏だったといっても過言ではないだろう。


 バッハ自身この独創的な作品集を大変気に入っていたようだ。作曲された1725年頃と1740年代後半のバッハの弟子による筆写譜があり、ともにバッハの注釈が記入されている。通奏低音無しの2重奏は当時革新的な演奏形態で、バッハは晩年までそれを強く意識し、さらに改訂を加えようとしていたようだ。

 演奏は、曲集の順番通りではなく、第6番から、と変則的。バッハはおそらく第1番から順番に演奏、あるいは聴いていくと2重奏曲の基本形から発展形までを辿っていけるように曲集をまとめあげたのに違いない。そう考えると第6番は、バッハにとってこのジャンルでの一つの到達形になるが、今日の演奏者2人は当然それを意識しての演奏だっただろう。

 アクティヴで躍動する溌剌としたリズム感に満たされ、両者が対等で表現する第1楽章と第5楽章、両者の陰影豊かな対話が印象的な第2楽章と第4楽章、求心的で迫力あるチェンバロソロの第3楽章、いずれも説得力ある秀演だ。

 こうした圧倒的な演奏で聴いてみると、バロック時代の枠をはるかに越えた斬新なスタイルの2重奏曲であることがよくわかる。この作品の凄さ、独創性を余すところなく伝えてくれ、今日の演奏会の今後の展開を期待させる見事な演奏だった。


 続く第5番は定番通りの緩ー急ー緩ー急の4楽章だが、例えば第1楽章でのチェンバロの対位法的動きとヴァイオリンの1小節を超える持続音の対比の美しさ、第3楽章でヴァイオリンが2声の和声を演奏する一方でチェンバロが装飾的アルペジオ音型を演奏するユニークな対話の美しさなど、この作品の独創的アイディアを存分に味わうことができた名演だったと言える。


 第4番の冒頭のシチリアーナはどこか懐かしさを感じさせる美しさが、また、速い楽章では両者の対話の見事さが伝わってきた。この作品では、特に両者の音域が、それぞれのパートが明確に聴こえるように書かれていて、第6番のように完全に対等な書法とは違った配慮がなされているのを感じさせてくれた。


 後半の冒頭、第1番はこれぞ理想的なバロック時代の2重奏、と強く認識させた隙のない、ほぼパーフェクトの演奏。両者の楽器の特質の違いとそれを生かしたバッハの書法がこれほど豊かに表現された演奏は初めてだ。

 若松の重音の美しさ、すっきりとホール全体に抜けきった音色、心地よいピッチと歯切れ良いリズム感など、申し分ない。大塚の安定したテクニック、豊かなアーティキュレーション、2人の息のあったアンサンブルなど、どれをとっても理想的。


 続く第2番では、第1番から見事に舞台転換されたオペラのステージを見るような、鮮やかな表現の転換を披露。イ長調の伸びやかな広がりのある表情がとても素敵だった。

 最後のホ長調の第3番では第1楽章のチェンバロの厚い和声奏法、第3楽章でのバッハには珍しい単純過ぎる和声伴奏形とヴァイオリンとの見事な対話など、次第にこの作品集ならではの独創的な書法が次々と登場する姿が見えてきた演奏。それぞれ生き生きと、時にはハッとさせるような表現もあり、実に聞き応えがあった。


 こうして全曲を通して聴いてみると、個人的な好みを言うとやはり第1番から順番に聞いて行った方が、作品が次第に独創的表現を高め変容していく姿が感じられ、より楽しみが増えるように思える。

 しかし、今日の2人は、このバッハの究極の2重奏作品が持つ強烈な個性に負けることなく、一つ一つの細かいモティーフを的確に表現し、それらを積み上げながら、オリジナリティ豊かなスケールの大きな作品に仕上げてくれた。その鮮やかな演奏と、素晴らしいかつタフな感性に今日は大きな拍手を贈りたい。

 なお大塚の演奏したチェンバロは昨年、小林道夫(ゴルトベルク変奏曲演奏会、8月31日)が弾いた楽器で、このホールの所有。2013年に帯広六花亭のために大塚がコーディネートして発注したカッツマンの楽器で、ふきのとうホールのオープンに合わせて札幌に引越ししたようだ。粒立ちがはっきりした明瞭な音色で、今日の2重奏には最も相応しい楽器だったとも言える。

2025/06/09

 森の響フレンド名曲コンサート

~モーツァルトとバーメルト

 2025年6月 8日14:00  札幌コンサートホールKitara大ホール


指揮 /マティアス・バーメルト

管弦楽/札幌交響楽団


モーツァルト 交響曲第39番

モーツァルト 交響曲第40番

モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」



 今日は第40番が12型で、あとの2曲は14型の編成。バーメルトは前回のモーツァルト(2023年11月、hitaru定期第15回、このときは40番を14型で演奏)でも大きな編成で演奏するのでこれはいつも通り。そして今日はモーツァルトだけを演奏するプログラムのためか、いつもより解釈に一貫性があり、バーメルトのモーツァルト像がより明確にされた演奏会だった。


 とても素晴らしいモーツァルトだった。それぞれの交響曲の持つ個性的で多彩な表情が実に細やかに表現されていて、しかもそれらが繊細で柔らかく、優しく表現されている。平板にならず、陰影のはっきりした彫りの深い音楽で、どの楽章も心地よいテンポ感、リズム感で演奏されている。

 音色が美しく、弦楽器セクションはヴィブラートを最小限にして、弓で押さえ過ぎない力の抜けた柔らかい音で、とてもきれい。管楽器セクションは絶妙にコントロールされた力みのない艶のある音がまっすぐ伸びてきて聴きやすい。オーケストラを無理やり鳴らさずに自然な響きで聴かせてくれ、全体のまとまりが素晴らしい。これはいつものバーメルトの響きだが、今日は最良の音だ。

 全体的には、中庸で落ち着いた大人のモーツァルトと言ってもいいだろう。過去、小編成での古楽器によるモーツァルトの演奏でこのようなタイプの名演に触れる機会はあったにせよ、札響の演奏では、過去色々な指揮者のモーツァルトを聴いてきたが、これほど繊細かつ表情豊かなモーツァルトは初めての経験だ。


 総合的には後半のジュピター交響曲が最もいい演奏だった。冒頭のトゥッティと続く弦の問いと答えの対比の表情のコントラストの見事さ、第2テーマのしなやかな歌い方、第2楽章の繊細で、かつ様々に変容するリズム音型の多彩な表情、第3楽章メヌエットの冒頭の自然で柔らかい歌い方と自然な表情のアーティキュレーション、第4楽章の堂々とした構成力など、一つ一つ挙げればきりがないが、全体的に申し分ない仕上がり。全体の音響バランスがとても良く、これぞ交響曲、と言いたくなる演奏だった。


 第40番は、前回の演奏よりはバーメルトの意志が徹底されており、各楽章ともいい仕上がり。小編成による表現の明瞭さがよく生かされていて、特にこの交響曲の持つドラマティックな要素が、力まず、強調し過ぎずに、ごく自然な流れの中で表現されていて、バーメルトの優れたバランス感覚を感じさせたいい演奏だった。


 一方で、第39番は、ジュピター同様の秀演だったが、第4楽章でわずかに第1ヴィオリンの不揃いが目立つなど、惜しいところもあり、またこの交響曲では、アンサンブルでややバランスを崩すところがあって、これは指揮者の責任ではなく、オーケストラの自助努力で解決すべき課題だと思う。


 アンコールはモーツァルトのディヴェルティメント K.136から 第3楽章。バーメルトがしっかりコントロールしていたにせよ、団員の自発性が発揮され、見事なアンサンブルと多彩でまろやかな表情が印象的で、今日の全体の演奏を総括するような素敵なアンコールだった。

 場内はほぼ満席。名曲の名演を堪能していたようだ。

2025/06/02

 札幌交響楽団第669回定期演奏会


2025年6月1日13:00  札幌コンサートホールKitara大ホール


指揮とオーボエ独奏:ハインツ・ホリガー

管弦楽:札幌交響楽団


ホリガー/2つのリスト・トランスクリプション

ケルターボーン/オーボエと弦楽のための変奏曲

ウェーベルン/管弦楽のための6つの小品(1928年版)

シューベルト/交響曲「ザ・グレイト」




 冒頭リストの編曲は、晩年のピアノ作品、「暗い雲」と「不運」によるもの。極端に音の数が少なく、謎めいたこの2曲をオーケストラ用に編曲するにはかなりのセンスが要求されるだろう。

 一つのモティーフを断片的に刻むように異なる楽器で表現するなど、編曲の基本コンセプトは明らかにウェーベルンを意識しているようだ。原曲のピアノのモノトーンの響きが色彩感豊かに聴こえてくるので、原曲とはイメージがかなり違うため聴く方としては戸惑いがあり、聴衆も指揮者もどことなく手探り状態でのスタートだった。


 2曲目のケルターボーンは1960年、21歳の若きオーボエスト、ホリガーのために書かれた作品。65年前、当時の俊英奏者ホリガーはきっと尖がった感覚でかなり鋭く演奏したに違いない、と想像させる86歳のホリガーの演奏で、年齢を考えれば奇跡的な完成度だ。

 作風は前後2曲と比べるとかなりアクティヴな性格だ。個性的ではないにしても、当時としては前衛的で技巧的な作品だったのに違いない。コントラストが明確で、ここに配置したホリガーの意図が読み取れる。


 ウェーベルンは、解説(沼野雄司)にもある通り、マーラーの長大重厚な交響曲と一緒の変則的な4管編成のかなりの大編成で、しかもわずか10分で終わり、主催者側にとっては極めて不経済とも言える作品だ。

 作風と音色には冒頭のリスト・トランスクリプションとの共通性も感じられたが、大編成のライヴで聴くとかなりロマンティックでもあり、試行錯誤していた当時の時代の雰囲気がよく伝わってくる。管楽器グループのかなり高度な演奏テクニックによる抑制のある表現がとても素晴らしく、聞き応えがあった。全曲演奏は1995年以来2度目だそうで、貴重な機会でもあった。


 後半のシューベルトは、前半のプログラムがかなり綿密に仕上げられていたのに対し、こちらは結構アバウト。12型で、ウェーベルンと比べるとかなりの小編成の印象。ただし響きはとても充実していた。

 第1楽章、第2楽章は余計な感情を込めずにストレートに演奏しており、やや単調。それに対して後半のふたつの楽章は、基本的に同じ姿勢の演奏だが、作品の構成がこのような解釈に向いているのか、爽快な感覚も感じられた快演。前半の20世紀以降の作品はかなりロマンティックで多彩な表情を込めるのに、シューベルトではあっさりとまとめ上げるホリガーの独特の感性に今回は振り回されてしまったようだ。86歳にもかかわらず感覚の若々しさに感心。

2025/05/28

 ジョアキーノ・ロッシーニ

セビリアの理髪師全2幕

〈イタリア語上演/日本語及び英語字幕付〉


2025年5月25日14:00  新国立劇場


指 揮/コッラード・ロヴァーリス

演 出/ヨーゼフ・E.ケップリンガー

美術・衣裳/ハイドルン・シュメルツァー

照 明/八木麻紀

再演演出/上原真希

舞台監督/CIBITA 斉藤美穂


アルマヴィーヴァ伯爵/ローレンス・ブラウンリー

ロジーナ/脇園 彩

バルトロ/ジュリオ・マストロトータロ

フィガロ/ロベルト・デ・カンディア

ドン・バジリオ/妻屋秀和

ベルタ/加納悦子

フィオレッロ/高橋正尚

隊長/秋本 健

アンブロージオ/古川和彦


合唱指揮/水戸博之

合 唱/新国立劇場合唱団

管弦楽/東京フィルハーモニー交響楽団



    演出はヨーゼフ・E.ケップリンガーで、2005年初登場のプロダクション。今回が6回目の再演となる。前回上演が2020 年で、このときは2月16日の最終日公演を鑑賞、ロジーナは今回同様脇園彩だった。

    再演が重ねられているということは評価が高い証拠だろう。プログラムノートに掲載されているケップリンガーの演出コンセプトによると、設定は1960年代のフランコ政権下のセビリア。従って衣装など現代風の設定だが、肩の凝らない筋書なので、さほど違和感なく入っていける。

 舞台セットが3階建ての場末の建物で、バルコニーのある外側と、その建物の部屋の中の詳細な様子が微に入り細に入り表現された内側があって、それが物語の進行に従って回転して入れ替わる仕組みになっている。建物の内側の様子はトイハウスのように全ての部屋が鳥瞰できるようになっており、例えばロジーナの部屋で起きている事件を演じている時、他の部屋で誰が何をしているかが、一度に見ることが出来る。従って観客は様々な情景と出来事を同時進行で聴き、観ることが出来る。セットは奥行きがあり色彩感があり照明がとても効果的だ。これを煩わしい、と感じる聴衆もあるかもしれないが、ストーリーが単純明快なだけに、舞台の進行を飽きさせず、補足する意味も持っていて、これはなかなか面白い。かれこれ20年も続いているプロダクションの人気の秘密はここにあるのだろう。

 一方で、この演出ではそれぞれの登場人物のキャラクターがしっかり描かれていて、例えば、子供達がフィガロの下に集い、フィガロがガキ大将的役割をするなど、原作にはないシーンも登場する。

 ロッシーニを観るもう一つの楽しみは歌手の名技。歌手の粒が揃っていて、歌手の節回しの粒が揃っていなければ、演出が良くても全く面白くない。その点で言えば、今回のキャストはほぼ問題無し。

 ロジーナの脇園彩は前回に引き続きの登場で、この5年ですっかり世界的名花になったようだ。歌も演技もこの役柄を見事にこなしており、コミカルでかつ感性豊かな女性を見事に演じていた。

 アルマヴィーヴァ伯爵のローレンス・ブラウンリーは、ヴィブラートが多過ぎて輪郭がやや曖昧。どれが装飾フレーズなのかよくわからないところもあり、ロジーナに愛を告白するにはちょっと期待はずれで役不足。それでも後半になるに連れて本領を発揮し始めたようで、ややエンジンの掛かりが遅かったのが惜しい。

 フィガロのロベルト・デ・カンディア、バルトロのジュリオ・マストロトータロ(新国立劇場初登場)は、2人とも声、表情、体格とも貫禄充分で、特にフィガロ役のデ・カンディアが本当の主役は俺だ、と感じさせる存在感があり、これは見事。その他の日本人グループではドン・バジリオの妻屋秀和がさすがの出来。

 器楽ではおそらくオーケストラよりも出番が多かったチェンバロを弾いた飯坂純が、様々な心理状況や情景を即興風に表現し歌手を鮮やかにサポートして出色の仕上がり。 今日の公演の立役者の一人だろう。

 指揮のコッラード・ロヴァーリスは19年のドン・パスクワーレ公演(11月17日)を観て以来。手慣れたオペラ指揮者で、品よく全体をまとめ上げるその手腕は前回と変わらない。好印象の指揮者だ。

 今日はこのプロダクションの初日で、5度目の再演にもかかわらず、観客の入りは上々。エンターテイメント・オペラながらも、少々毒気のある香辛料がきいた上質の公演で、楽しく鑑賞できた。