2024/04/19

小澤征爾と札幌(2)

1968年日本フィルハーモニー交響楽団札幌公演


 小澤は、62年のN響北海道ツアー後、海外で活躍するほか、日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者に就任する。その日本フィルを率いて1968年に来札公演を行っている。


小澤征爾指揮  日本フィルハーモニー交響楽団 札幌公演


1968年8月27日18:30  札幌中島スポーツセンター

指揮/小澤征爾 

管弦楽/日本フィルハーモニー交響楽団


札幌交響楽団第75回定期公演
プログラムに掲載された広告

ベルディ:歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲

モーツァルト:ホルン協奏曲第3番変ホ長調 K 447

小山清茂:管弦楽のための木挽歌(抜すい)


ドヴォルジャーク:交響曲第9番「新世界より」





日本フィルハーモニー交響楽団との関わり


 小澤が日本フィルに就任した時期等については、日フィルの小澤追悼コメントから引用してみよう。


 「小澤氏は、1964年2月に日本フィルの楽団参与に就任、その年の第1回北米公演では全34回の公演のうち5公演を指揮し大成功を収め、 1968年8月19日から1972年6月までミュージカル・アドバイザー兼首席指揮者として創設期の日本フィルに多大なる貢献をいただきました。

 ベルリオーズ《死者のための大ミサ曲(レクイエム)》、同《テ・デウム》、バーンスタインの《チチェスター詩篇》、同交響曲第3番《カディッシュ》等を日本初演、邦人作曲家に作品を委嘱する「日本フィル・シリーズ」の3曲を世界初演。1972年6月定期演奏会のマーラーの交響曲第2番《復活》の演奏は今でも語り継がれています。」


 1968年8月19日に日本フィルの指揮者に就任した小澤は、その直後の8月27日、日本フィルを率いて札幌公演を行っている。このときのプログラムは上記の通り。この演奏会を筆者は聴いている。


土砂降りの中の新世界

 会場の北海道立札幌中島スポーツセンター(1954年開館2000年閉館)は、札幌市民会館よりも座席数を稼げるため(約四千席)、大きなコンサートが開催されることが多かった。ただし、その名のとおりスポーツ関連の行事のための施設で、当然のことながらクラシックのコンサートには不向きだった。客席は固定席ではなく、都度パイプ椅子を並べるスタイルで、外部の音が聞こえやすかった。

 演奏会当日の8月27日は夕方から雨で、会場の屋根に跳ね返って生じた雨音は場内に容赦なく響き渡った。特に後半の「新世界から」演奏時は土砂降りとなり、その激しい雨音で音楽はほとんど聴こえなかった。

 初めての小澤の演奏会の記憶は土砂降りの雨音だけで、はっきりと覚えているのはアンコールで客席側に振り向いた小澤の「お暑うございます。」というセリフだけである。


 このときのプログラム前半には当時小学校の鑑賞教材になっていた小山清茂の「管弦楽のための木挽歌」を演奏するなど、邦人作曲家の作品紹介にも積極的だった小澤の姿勢がうかがわれる。ただし、何故かプログラム前半の記憶は全くなく、アンコールの曲目も覚えていない。それほど雨の音が強烈だったのだろう。


 1971年(昭和46年)に2300席の北海道厚生年金会館(2018年9月閉館)が開館したため、この中島スポーツセンターは1970年のジョージ・セル指揮のクリーブランド管弦楽団公演を最後に、クラシック演奏会では使用されなくなる。


プロレスの聖地、中島スポーツセンター


 なお、中島スポーツセンターの名誉のために付け加えると、プロレスの聖地とも言われ、プロレスの興行、歌謡コンサートや大相撲札幌場所、展覧会などが行われ、多くの人々が集った札幌の文化を支えた名会場だった。

 展覧会では、1964年8月〜9月にかけ、ここで開催された「国立西洋美術館蔵 松方コレクション展」は、ロダンの「考える人」が展示されるなど、初めて見る世界の名作群に心踊らされたものだった。クラシックコンサートはイレギュラーな使い方だったのである。


 さて、次に小澤は1970年にニューヨーク・フィルを率いて来札する。これについては(3)で。


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