2024/11/21

 ジョアキーノ・ロッシーニ

ウィリアム・テル<新制作>

全4幕〈フランス語上演〉


2024年11月20日16:00 新国立劇場オペラパレス


指 揮/大野和士

演出・美術・衣裳/ヤニス・コッコス


ギヨーム・テル(ウィリアム・テル):ゲジム・ミシュケタ

アルノルド・メルクタール:ルネ・バルベラ

ヴァルテル・フュルスト:須藤慎吾

メルクタール:田中大揮

ジェミ:安井陽子

ジェスレル:妻屋秀和

ロドルフ:村上敏明

リュオディ:山本康寛

ルートルド:成田博之

マティルド:オルガ・ペレチャッコ

エドヴィージュ:齊藤純子

狩人:佐藤勝司


合唱指揮:冨平恭平

合 唱:新国立劇場合唱団

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団


 

 16:00開演で30分の休憩2回を挟み終演は20時40分頃。ロッシーニで約4時間半の長丁場、一体どうなのだろうかと不安があったが、期待以上の素晴らしい公演だった。

 舞台演出はヤニス・コッコス。写実的な舞台ではなく、モダンで抽象的ではあるが、場面ごとに照明が変わったり舞台セットが上から降りてきてスムーズに転換するなど、その都度の出演者の心理状況の変化を繊細に表現していてとてもわかりやすい。モダン風であっても場面ごとの描写が垢抜けていて色彩感が豊かで、観客を飽きさせることがなかった。

 衣装は当時の時代背景を基調としたものだが、現代との共通性を感じさせ古臭さを全く感じさせない。生き生きと登場人物を表現していて、これもとてもわかりやすく、魅力的だった。

 指揮の大野和士が素晴らしかった。古典的な均整感とロマンティックかつドラマティックな表現力がとても豊か。音楽が一切弛緩することなく流れがとてもよく、登場人物の心理状況を見事に表現していた。舞台同様、聴衆を飽きさせることなく、全体を引き締まった緊張感ある作品にまとめ上げており、見応えのある公演だった。

 初日ということもあったのかもしれないが、冒頭の有名な序曲からスケール感ある力のこもった演奏。これから始まる長大なオペラを期待させるに充分な仕上がりで観客を沸かした。序曲だけはよく聴くが、これほど充実した演奏は初めてだ。

 東京フィルハーモニー管弦楽団は、正味3時間を超えるにもかかわらず、安定した管楽器群を筆頭に大活躍。大野の棒に見事に答え申し分なかった。


 歌手では、テル役のゲジム・ミシュケタとアルノルド役のルネ・バルベラが表現力豊かな声量で見事。特にバルベラが、許さざる恋と祖国の解放との揺れ動く葛藤を見事に表現して、秀逸。

 日本勢ではテルの息子ジェミ役の安井陽子が、テルの心理状況を補完する役割を見事に果たしていて、登場場面は少なかったにせよ、実に印象的な存在。

 そのほかの海外組では、注目のマティルド役のオルガ・ペレチャッコは感性豊かで柔らかい流麗な歌唱で魅力的ではあったが、全体的にヴィブラートが多すぎ輪郭が不明瞭で声量も不足、ちょっと期待はずれ。観客の拍手の少なさがそれを物語っていたのではないか。

 一方総督ジェスレルの妻屋秀和は何故か声にいつもの豊かさと表情がなく、声が客席に充分届かず、絶不調。本当に妻屋だったのだろうか。どうしたのだろうかと心配になる程で、とても残念だった。

 全体のもう一つの進行役、合唱はその都度の場面状況を的確に、かつ明確に表現し聴衆に伝えてくれ申し分ない仕上がり。

 劇中のダンスはエンターテイメントとして舞台を盛り上げ、しかもアクロバット的ではなく、節度あるしなやかさがあって進行を盛り上げ、なかなか素敵だった。ここに限らず、全体的に人の動き、進行がスマートで、コックスの統率ぶりが見事だった。


 それにしても、1829年の作品でありながら、現代に共通する様々な時代情勢とそれに対する人々の心理状況が見事に表現されていて、鑑賞するまでこれほど興味深く感性豊かな作品だとは思わなかった。それを見事に演出し、魅力的な音楽として現代に再創造した演出家と指揮者に喝采を贈りたい。

2024/11/20

 第1009回サントリーホール定期シリーズ

東京フィルハーモニー管弦楽団


2024年11月19日19:00サントリーホール


指揮/アンドレア・バッティストーニ(首席指揮者)

東京フィルハーモニー管弦楽団


マーラー:交響曲第7番『夜の歌』 


 バッティストーニはこの交響曲は初めてで、東フィルは22年ぶりだそうだ。

 これはバッティストーニならではのマーラー。メリハリがあり、表現はクリア。音楽は隙無く先にどんどん進む前向きの演奏。エッジの効いた、鋭く振幅の大きい表情で、よく歌い込まれている。オーケストラを見事にまとめ上げた充実した演奏だ。

 この交響曲は聴く機会が少なく、理解しにくい作品だが、それにしても今まで聴いたことのない演奏だ。これが正解とは思わないが、一つの解決策を聴衆に示してくれたのではないか。

 どの箇所をとってもよく歌われ、時にはリヒャルト・シュトラウス風だったり、時にはオペラの愛の場面のようだったりと、様々な場面、表情が次々と現れてきて、とても面白い。ハンガリー風だったり、ロシアの舞曲が現れたり、イタリアオペラの一場面風と思わせたり、と世界諸国漫遊をしているようだ。

 色々な国の音楽が聞こえてくるような錯覚を受け、これは普段は気が付かない、ひょっとしてマーラーの幅広い音楽観を過不足なく表現していたのではないか、と勘ぐったりもする。

 

 第1楽章はもっと繊細な表情があってもいいと思ったが、振幅の大きなスケール感があり、かなりすっきりとまとめ上げられていた印象。

 第2楽章と第4楽章の夜の歌は、濃厚でたっぷりとした表情で両楽章とも夜のイメージはあまり感じられないにしても、あちこち散文的に登場する様々なモティーフが色彩感豊かに大きく一つにまとめられていて、とても聴きやすかった。

 バッティストーニの特徴がよく現れていたのは第3楽章のスケルツォ。「影のように」、とマーラーは指示しているが、躍動感があり、明るく伸びやかで屈託のないスケルツォ。

 最終楽章は、書法にもよるのかもしれないが、それまでの楽章が濃密に表現されていたこともあり意外と淡白な表情に聴こえてきて、マーラーの抱いたと思われる破天荒なフィナーレとならなかったのが逆に面白かった。今日は14型の編成だったが、バッティストーニ、フィナーレだけは弦楽器を充分鳴らし切ることができなかったようで、ちょっと残念。

 オーケストラは大健闘で、特に管楽器群の充実ぶりが素晴らしかった。

2024/11/19

 新日本フィルハーモニー交響楽団#659

サントリーホール・シリーズ


2024年11月18日19:00  サントリーホール


指揮/井上道義

新日本フィルハーモニー交響楽団


ショスタコーヴィッチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」



 年内に引退を表明している井上は2007年にショスタコーヴィッチの交響曲全曲演奏会を行なっており、お得意のレパートリーだ。

 第1楽章の冒頭からしばらくは音程や全体的にピッチが定まらず安定性に欠け、これから先どうなるのか、と心配だったが、小太鼓のオスティナート・リズムから始まる長大で壮大な変奏箇所から次第に充実したいい音が出始め、楽章の後半になると、井上らしいスケールの大きい、生き生きとした音楽が聴こえるようになってきた。

 特筆すべきは第3楽章。作曲者自身が「感動的なアダージョ」と自画自賛したとおり、雄大な音楽が展開された。ここでの井上は、息の長い、深く歌い込まれた音楽を表現して、実に感動的。

 この作品に込められた作曲者の想いももちろんそうだが、現在の世界情勢や過去の悲惨な戦争の歴史など、今日の聴衆が個々人で感じている様々な思いを全て包括したような、大きな普遍性を持った感情を見事に表現していたのではないか。作品の価値を一段と高め、この作品の素晴らしさを余す所なく伝えてくれた井上畢竟の名演だった。

 続く第4楽章は、この作品を完結させるために、情熱的に壮大なフィナーレを書かざるを得なかった必然性のようなものを感じさせ、単に音響的な華やかさに終わらない、ある種の気分の高揚を感じさせた演奏だった。


 ショスタコーヴィッチの交響曲には簡単に馴染むことができない作曲者自身の複雑な時代背景があり、そのためか一部の交響曲を除き、演奏機会はさほど多くない。しかし今日の演奏を聴くと、そういう作曲者の個人的背景を超えた、人類に共通する普遍的な感情を表現した音楽芸術の素晴らしさを感じさせ、ショスタコーヴィッチが歴史的に過去の巨匠たちと肩を並べる大作曲家の一人であることを強く認識させたコンサートだった。


 歳を取れば誰でも巨匠だ、とよく言われるが、井上は敢えて巨匠となることを拒み、永遠の青年のような若々しく伸びやかな演奏をいつも聴かせてくれた。そして今日のショスタコーヴィッチの演奏は、年齢を重ねて熟練した技術と音楽性を背景に、最後まで老成せず生き生きとした音楽を表現し続けた井上道義の集大成となった見事な演奏だったと言えよう。今日の、特に後半の2つの楽章はけっして忘れることのできない名演として語り継がれることだろう。


 カーテンコールでは大きな花束が贈呈され、井上らしいユーモアあふれる表情と態度で明るくステージを去った。音楽も含め湿っぽさの無い、いつまでも心に残る気持ちのいい引退公演だった。


 井上はこのあと東京では12月30日が最後のコンサート。それまでは関西で2回のコンサートが予定されているようだ。札幌交響楽団とはすでに今年公演を終えているが、札響との関わりもとても深く、その業績については項を改めて報告したい。

 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

2024年11月17日16:00 サントリーホール


指揮/アンドリス・ネルソンス

ピアノ/イェフィム・ブロンフマン

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品37 

R. シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』作品40


 今日のコンサートマスターはシュトイデ。ベートーヴェンを弾いたブロンフマンは、楷書体でお手本のようなオーソドックスな演奏スタイル。おそらく楽譜にできるだけ忠実でインテンポによる見事な均整感ある演奏で、オーケストラとのアンサンブルも完璧。全て予定調和で文句のつけようがない。そのためでもないだろうが、ブロンフマン、カデンツァ(ベートーヴェン自身によるもの、これも定番メニュー)以外を除いて指揮者をほとんど見ることがない。

 オーケストラはさすがにいい音がしていて、最初のオーケストラだけの提示部はバランスよく弦の響きが心地良い。シュトイデの演奏がソリストのようにはっきりと聴こえてきたのも意外だったが、メリハリのある明確な表現で聞き応えがあった。

 ソリストとのアンサンブル時は音量を抑え慎重にソリストを引き立て、オーケストラだけになると俄然生き生きと生命力あるスケール感ある演奏を聴かせる。このコントラストが面白かったが、丁々発止のやり取りは全くなく、協奏という意味からすると今ひとつ物足りなさを覚えたのは否定できない。

 ソリストアンコールでシューベルトのピアノソナタ第14番イ短調 D. 784 より第2楽章から。これは繊細な表情でとても良かった。今日の楽器はスタインウェイだったが、乾いた音色で必ずしもベストの響きがしていたとは思えない。


 「英雄の生涯」は、このオーケストラの底力を存分に示してくれた快演。ダイエットしたのか、スマートになったネルソンスがオーケストラを伸び伸びと響かせた気持ちのいい演奏。やはりオーケストラから最も良い響きを引き出すことができる指揮者なのだろう。重厚で底力のある音で、オーケストラの醍醐味を存分に伝えてくれた。

 どのセクションもやはり上手い。シュトイデのソロは優美というよりは鋭さのあるかなり戦闘的な演奏。ただ、ソロであっても全体的な音響的バランスの中で音色が統一されていて、この感覚は素晴らしい。管楽器群のソロ、アンサンブルは、ただ勢いよく吹くのではなく、音質や響きのバランスなどがよく練られていて、やはり一級品。評論家を揶揄する管楽器群のアンサンブルの箇所など、評論家のやかましいおしゃべりぶりを強調したのか、生き生きと表現され愉快。

 このオーケストラならではの研ぎ澄まされたアンサンブル感覚の上に、熟練した各パートの演奏が積み重なって豊かな音響世界が繰り広げられ、聞き応えのある見事なシュトラウスだった。

 

 これだけ管楽器が活躍する作品の後では、日本のオーケストラの場合、管楽器を休ませ弦楽器だけのアンコールを演奏する場合が多いが、さにあらず、管楽器も活躍するシュトラウスの作品が2曲。

 J. シュトラウスⅡ世:ワルツ『人生を楽しめ』作品 340とヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・シュネル『飛ぶように急いで』 作品 230。これはレパートリーに入っているのだろう、実に手慣れた演奏でこのオーケストラならではの自由闊達な表情で存分に楽しませてくれた。


 余談だが、この日の朝の8:30のANA 52便で上京。これがコンピュータの不具合とかで機内で1時間ほど待たされた後、降ろされ地上で待機。

 その後メッセージが入るたびに出発が遅れ結局出発が13:10ごろ。実に5時間近くの遅延。羽田着が14:35、重い手荷物を持ってサントリーホールに直行、到着が15:35。開演に無事間に合う。冷や冷やの旅行だったが、最近航空機の遅延がやたらと多い中これは酷すぎる。間に合わなかったらチケット代を補償してくれたのだろうか。

2024/11/11

 札幌交響楽団名曲シリーズ

森の響名曲コンサート~すべての道はローマに通ず:ローマ三部作

 2024年11月 9日 札幌コンサートホールKitara大ホール


指揮 /川瀬 賢太郎

管弦楽/札幌交響楽団


レスピーギ 交響詩「ローマの噴水」

レスピーギ 交響詩「ローマの松」

レスピーギ 交響詩「ローマの祭り」



 ローマ三部作全曲がこのホールで初めて演奏されたのは、札幌コンサートホールKitaraの開館2日後の1997年7月6日のオープン記念コンサート(指揮は秋山和慶)。オルガンが入っていて、華やかでオープニングシリーズにふさわしい曲目としてセレクトされたと記憶している。もう27年も前のことだが、ホールの響きは安定し、札響も当時とは全く違う素晴らしいオーケストラとなった。

 川瀬は1984年生まれ。指揮者としてはまだ若手なので、華麗にオーケストラを鳴らし、若さに満ちあふれた元気いっぱいのコンサートになるのではと思ったが、さにあらず、実に落ち着いた音楽性豊かなローマ三部作で、この作品の素晴らしさをじっくりと堪能できた演奏会だったと言える。


 「ローマの噴水」は、噴水の様子を静謐で情緒的に表現。時折現れるフォルテシモは鮮やかに噴水が飛び跳ねるように聞こえ、まさしく標題そのものの情景が目に浮かんでくるような表現だ。派手ではなく豊かな情景描写に主眼を置いたこの方向性は全4曲通して全くブレることがない。多種多様な楽器が登場するが、バランスがよくピッチはきれいに統一されていて気持ちがいい。爽やかで息の長い音楽が展開されて、とても印象に残るいい演奏だった。


 「ローマの松」でも、必要以上にオーケストラをがなり立てる事がなく、強奏でも響きが割れず、聴きやすい。終曲の「アッピア街道の松」は歩みが慎重で、もっと前向きで派手に演奏してもいいのに、とちょっともどかしいところもあったが、どこのフレーズをとっても音楽的によく歌われていて、無機質な表情が全くなく、とても好感の持てる秀演だ。


 「ローマの祭り」では終曲の「公現祭」に向かって徐々に盛り上げていく。随所で聴かせるソロはみな音楽的で上手い。ただ上手いだけではなく、それぞれの場面の情景をよく表情豊かに表現しており、オーケストラ全体がこれだけ色彩感豊かに響いて来たのは久しぶりだ。


 全体を通してオーケストラが終始バランスよく響いていたのは特筆すべきこと。川瀬のよく考え抜かれた表現も見事だったが、オーケストラの各セクションの充実ぶりが実に素晴らしい。ハリウッド映画のごとく劇的に描写した作品(当日配布プログラム解説)かどうかはよくわからないが、この作品はやはりライブで聴かないとその音響的素晴らしさはわからない。

 オーケストラに登場する楽器がほぼ出揃う華やかな編成で、今日のようにとても表情豊かな演奏で聴くと、レスピーギの見事なオーケストレーションと変化に富んだ音楽の素晴らしさを改めて認識することができる。エキストラには懐かしい顔ぶれもいて、視覚的にも大いに楽しめた演奏。

 子ども向けの音楽鑑賞教室用プログラムとして最適な気もするが、ちょっと編成が大きすぎて実現は難しそう。


 アンコールに、マスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲。レスピーギの熱演の後でオーケストラの音色がややお疲れ気味だったのが惜しい。

 コンサートマスターは会田莉凡。



2024/11/04

 アンドレアス・シュタイアー 

チェンバロリサイタル


2024年11月2日14:00 札幌コンサートホールKitara小ホール


チェンバロ/アンドレアス・シュタイアー


フィッシャー:「音楽のアリアドネ」より プレリュードとフーガ ホ長調
フックス:「パルナスス山への階梯」より フーガ
フィッシャー:「音楽のアリアドネ」より プレリュードとフーガ 嬰ハ短調
ルイ・クープラン:パヴァーヌ 嬰ヘ短調
フィッシャー:「音楽のアリアドネ」より プレリュードとフーガ ニ長調
フローベルガー:リチェルカール 第4番
フィッシャー:「音楽のアリアドネ」より プレリュードとフーガ イ長調
フローベルガー:メディテーション〜自身の死についての瞑想
フローベルガー:ファンタジア 第2番
A.シュタイアー:アンクレンゲ ~チェンバロのための6つの小品(2020)
J.S.バッハ:「平均律クラヴィーア曲集 第2巻」より 

      プレリュードとフーガ ホ長調 BWV878



 シュタイアーは札幌初登場。休憩後にプログラム解説を執筆した那須田務氏とのトークがあり、自作の簡単な解説があった。Kitaraニュースにも掲載されていたインタビューのとおり、飛行機ではなく鉄路で札幌入りしたそうだ。

 今日の演奏を聴く限り、この人の演奏スタイルは、オランダをルーツに持つ古楽器楽派とは違って、いかにもドイツ人らしい質実剛健なタイプ。

 作品にあまり色々な衣装を着せたり装飾品で着飾ることなく、作品によっては全く素っ気ない表情で物足りなさを感じさせる瞬間も多いが、骨格がしっかりとしていて作品の形が崩れることが少ないのが特徴でもあり、また魅力でもある。


 前半は、17世紀のフローベルガーと18世紀のフィッシャーの2人のドイツ鍵盤音楽の巨匠の作品を軸に、フックスとルイ・クープランを間に挟んだ中々渋いプログラムだ。

 フィッシャーはそれぞれの作品が短く、あっという間に終わってしまうので

バッハとの関連性などあれこれ考えていると、もう次の作品の演奏に移っているので、油断できない。これもシュタイアーの狙いなのかもしれない。

 前半の中ではやはりフローベルガーのリチェルカーレとファンタジアが圧倒的な存在感を示し、余計な感情移入を許さない論理的思考に満ちた演奏で作品の姿を伝えてくれた。メランコリックな感性が存分に込められた「メディテーション」ではあっさりと、しかも繰り返しではバフストップを使用して単調な音色に変え、敢えて余計な感情移入を避けて骨格だけ示した演奏だった。

 ルイ・クープランの「パヴァーヌ」は、17世紀のチェンバロ作品中屈指の名曲で最もメランコリックな性格を持った作品の一つだが、ここでのシュタイアーは、客観性を重んじたいが一方で作品の強烈な感性に振り回されてしまい、どこか持て余しているような迷いがあり、失礼だがその葛藤ぶりが伝わってきて面白かった。楽器の響きがとてもきれいだった。


 後半の自作のアンクレンゲ(Anklänge)は6曲からなる30分ほどの大作。基礎となる6つの和音を休憩後のトークで弾いてくれたが、詳細はCDのライナーノートに記載されているとのこと。これがどのように作品の成立に反映されているか、これだけでは全く理解できなかったのは私だけか。

 無調で、上鍵盤と下鍵盤を頻繁に行き来し、2段鍵盤を持つチェンバロの機能、音色、響きを存分に生かした様々な諸相のモティーフが広い音域の中で登場する。繊細さと大胆さが同居した興味深い作品だが、発想そのものはチェンバロならではのオリジナリティを強く感じさせるというよりは、より広い範囲での汎用性のある現代音楽の発想で、例えば、強弱がもっと明確に表現可能な現代のピアノやフォルテピアノで演奏してもまた違った印象を受け、違和感がない融通性のある作品のような気がする。最後のバッハの平均律につながるプロセスも、一度聴いただけではわからない。ポピュラリティーのある作品とは思えないが、何度か聴くともっとその魅力が理解できるのだろう。


 全体はある一定のコンセプトで統一されたプログラムのようだが、前半の作品集がごくあっさりと短いインターバルで次々と演奏されたため、後半の自作との関連性が希薄になりがちに感じられたのがちょっと残念。

 今日のチェンバロは札幌コンサートホール所有のミートケモデル。柔らかくとてもいい音がしていて、今日のプログラムに最もふさわしい響きだった。