内田光子&マーク・パドモア
2022年11月24日19:00 東京オペラシティコンサートホール
主催 AMATI
ピアノ/内田光子
テノール/マーク・パドモア
ベートーヴェン:「希望に寄せて」(第2作)op.94
「あきらめ」WoO14
「星空の下の夕べの歌」WoO150
「遥かなる恋人に」op.98
シューベルト:歌曲集「白鳥の歌」D957/D965a
後半のシューベルトが凄かった。内田はもちろんの事、パドモアの歌も。人生経験豊富で教養豊かな語り部の話を聴くような、ちょっとなかなか経験できない演奏だった。
パドモアは、かなり自由に詩と音楽を歌い、語る。詩の内容に応じて、声が生っぽかったり、裏声風で軽薄だったり、深刻だったり、絶叫調だったりと、その表情の変化、豊かさが素晴らしい。
テンポは歌詞の内容により、変幻自在に変容し、イン・テンポで一曲が通して歌われることはない。その全体像をリードしているのは、内田の方なのかも知れないが、パドモアのあらゆる表情に対して音色と強弱を変え、ほぼ完璧にアンサンブルを組み立て、けっしてその語りを邪魔しない。一方で、消えるような繊細な前奏を聴かせてくれたり、かなりドラマティックな力強い表現で聴衆を圧倒し、驚かせてみたり、と、今までの歌曲の伴奏の常識を遥かに超えた、例えようのない凄みのある世界を築き上げていた。
その内田のピアノは、まるでソロリサイタルのように、とも思うが、実はソロリサイタルの演奏よりもっと表現は多彩で、その幅も大きいような気がする。ピアノ作品であれば、どのような物語を今語っているのか、様々な選択肢を聴衆に示すために、比較的断言しない中間色で表現、演奏しているところが多い。しかし歌曲の世界では、今何を語っているのか、歌詞でその解釈を明確に具体的に示してあるので、ソロよりも、もっとダイレクトに、表現しやすいのではないだろうか。
個々の歌曲で言えば、4曲目の有名な「セレナーデ」は、冒頭の前奏を1小節ずつ語るように「マンドリンの爪弾き(当日配布プログラム解説より)」のように演奏し、次の小節に進むときに絶妙な間がある伸縮自在なテンポで驚かされたが、フレーズの大きなまとまりは決して失わないところが凄い。ここでのパドモアは「声は熱っぽい夜の官能にもだえ(同)」とは縁遠い老賢者が過去を振り返るような語りだったが、内田のピアノは、それに合わせた清廉潔白で、静寂に満ちたもの。
7曲目の「別れ」は、ピアニスト泣かせの「快活な騎行のリズム(同)」だが、決して快活ではなく、「複雑な別れの心理(同)」を表し、その気持ちの揺れを微妙に表現しているような、たどたどしさを感じさせた。
それに続く「アトラス」での2人の、聴衆を驚かせた「苦難の絶叫(同)」のドラマティックな表現、第11曲「都会」での神秘的で「不気味な表情(同)」が秀悦。
終曲の「鳩の使い」は、ピアノは「鳩のやさしい羽ばたきをあらわし、恋人との親密さを印象づける(同)」ように演奏し、2人で全ての老若男女に対するメッセージを静かに語り続けているかのよう。そしてピアノの16音符のさりげない下降音型が何と美しいことか。
これらは内田のピアノがあってこその表現だろうが、この2人のシューベルトのリートの世界は、シューマンやブラームスを通り越して、20世紀の音楽を先取りした先見性と現代性を鮮やかに表現していた。それはきっと、非ドイツ語圏の二人だからこそできた自由な表現によるものではないだろうか。特に内田の演奏は、陳腐な言い方かも知れないが、西洋人には無い、東洋人ならではの神秘的で繊細な感覚に満ちている。
聴いていると,歌詞の意味が全てわからなくとも、今進行している歌の心理的な動き、深さが感じられ、ドイツリートの世界が到達した凄さが、全てではないにしても、この日の演奏会に現れていたような気がする。
シューベルトの世界と比較すると、ベートーヴェンのリートは演奏家自身が自由に想像力を働かせて、ファンタジックに多彩な表現力で演奏してみよう、とさせる隙がないのか、あるいはそれを許さないのか。シューベルトほどのオリジナリティを感じさせず、それは「つまり2人の歌曲のありようは人類全体の友愛の理念か、個々の市民の小さな愛の幸せか(同)」というプログラム解説が全てを物語っていたような気がする。
だが、後半のシューベルトがあまりにも強い印象を与え過ぎて、さすがのベートーヴェンも影が薄くなってしまったのが正直な印象だ。
プログラム解説は喜多尾道冬氏。明快で作品を理解するには最適の素晴らしい内容。アンコールは無し。美智子皇后が後半からご臨席。
なお、内田光子は札幌コンサートホールにはソロリサイタルと管弦楽団を率いてのコンチェルトとで数度来札し名演を聴かせてくれている。
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